最果タヒ「ずっと好きですと伝えたい」
好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう? 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。 【イラスト】北澤平祐さんの美しいイラスト * * * * * * * ずっと好きです、と、「好き」を強調するために言うのはどうしても不慣れで、私は長いことこの言葉が書けなかった。この人のことを私は特別に思っていて、きっとこれからも好きだろうなと思いながら、それを簡単に伝えることはできない気がした。ずっと、と書けば、「好き」は強くなる感じがするけど、でもそれはいろんなことに無邪気すぎる、と思えた。自分の「好き」を強調したいなら他の表現をしておきたい、なによりその瞬間に好きなだけでもそれは十分にとてつもなく尊いことだと私は思うから。その瞬間にそのきらめきを受け止めて、すごく好きだと思ったというその感情は、むしろ舞台が心に焼き付いた証だと思うから。だから、ずっと、という言葉はどうしても遠い存在だった。 それでも日に日に「ずっと」と書きたくて、出てきそうになる言葉と一人で話し込むような期間があった。好きを強めたいとかではなく、もはや本当に「ずっと好きだ」と思っている。無数の思い出があって、その思い出と共に生きていて、だから、その人のことが好きなのはもはや私にとって特別というより、心臓を動かすもの、血液の流れ、まばたき、そういう生きることと一緒にあるような事実だった。だから、その人のことをこれからも好きだと思い、そして伝えたいと願いながら、いつもうまくできなかった。思っているというのと、伝えるのはまた違う。思っていることを伝えるだけじゃ、本当は「伝える」ということにはならない。自分がちゃんと証明できないことを伝えるなら、「ただそう思うから」じゃ足りない気がしていた。