ものづくりにはなぜ“自信”が必要?石井裕也が考える映画の存在意義と「心を描くこと」の重要さ
「大事な話があるの」と言い残し急逝した母は何を考えていたのか。その“本心”を知るため、息子はVF(ヴァーチャル・フィギュア)という技術を使って、母を仮想空間に蘇らせる。11月8日(金)に公開された映画『本心』は、芥川賞作家・平野啓一郎の同名小説を原作としたヒューマンミステリーだ。 公開を記念し、Bezzyでは本作の特別リレーインタビューを敢行。第1弾は、脚本・監督の石井裕也が登場する。 映画『茜色に焼かれる』ではコロナ禍を生きる人々のもがきを、映画『月』では重度障害者施設を取り巻くシビアな現実を描いてきた石井にとって、人間を人間たらしめるものは何かという本作のテーマは必然だったと言える。 急速に進化するデジタル社会を前に、石井裕也は何を恐れ、何に祈りを託して、この映画をつくったのだろうか。 【撮り下ろし写真】『茜色に焼かれる』や『月』を手掛け、“人間とは何か”を描き続ける石井裕也監督
世界の“本心”が僕にはわからない
──本作は、主演の池松壮亮さんから映画化を提案されたと聞いています。監督自身が、原作を読んで、この作品は映画にすべきだと思った一番の理由はどこにあったんでしょうか。 これから新しい時代がやってきます。本音を隠さずに言えば、僕自身、恐怖があるんですね。はたしてこのままAIをはじめとするテクノロジーが普及していったとして、どんな社会になっていくのだろうか。そのとき、人はちゃんと人らしくいられるのだろうか、という不安が尽きない。けれど、そうした否定的な感情を一笑に付すような空気がある気がしていて、ずっと世の中の流れと馴染めずにいたんです。 平野さんの『本心』には、僕がずっと抱いていた不安や恐怖が克明に描かれていた。読んだとき、これは自分の話だと思ったし、同時にこの社会で生きている全員の話だとも思った。その確信が、僕がこの作品を映画にしようと思った一番の動機です。 ──昨年発表された『月』でも、人間とは何かという問いがありました。 『月』を撮ったことで、よりその問いに対する関心は深まったと思います。そういう意味でも、この『本心』という映画は『月』をやったからこそ生まれたものであり、本質というか、根っこの部分では『月』と同じようなことを突き止めようとしている作品だと言えますね。 ──それは、監督自身が人間を人間たらしめるものは何かということへの強い関心がおありだからでしょうか。 おそらくこれから社会がどんどんシステマティックになっていったとき、最初に問われるのがそこだと思うんですね。いや、むしろ問われるというより、さらされるとか、バレるというイメージのほうが近い。いずれ僕たちはその問いに真正面から向き合わざるを得なくなる。 ──原作は非常にボリュームのある長編小説です。これを2時間の映画尺に凝縮していく上でいろんな試行錯誤があったと思いますが、脚本開発における平野先生からのフィードバックで特に印象的だったことはありますか。 イフィーの存在ですね。人の“本心”は何か、という問いからこの物語は始まった。となると、最後はやはり母か、あるいは三好との愛の物語に帰結するのが、構造として最もシンプルだと思ったんです。けれど、終盤でイフィーという人物が出てきて、物語をさらにかき回す。イフィーの登場は、物語の本筋だけを考えれば、ある意味、ノイズといっても過言ではない。けれど、平野さんが最もこだわったのがイフィーだったということが意外でしたし、面白かったです。 ──それは映画を拝見しても思いました。確かに終盤になってイフィーが出てきたことで、物語がもう一展開したような印象があって。 さっき言ったように、この物語の入口は、AIに対する抵抗や否定的な感情でした。でも、イフィーが出てくることによって、AIによって劇的に恩恵を受けた人もいるというふうに、物語の幅がさらに広がった。きっと平野さんもそこをちゃんと押さえておきたくて、だからイフィーの存在は欠かせなかったんだと思います。 ──監督自身も、その実感値はありますか。 そうですね。2時間という尺の中でイフィーもちゃんと描くと決めたことによって、この『本心』という作品が、朔也の冒険譚という捉え方になりました。 ──冒険譚? 最新AIを搭載したVF技術を使って、朔也は死んだ母を仮想空間に蘇らせる。そこから彼はあちこちに迷子になりながら冒険をしていくわけです。その中で、偶然に訪れた僥倖を手にし、彼自身の人生が劇的に変化していく。けれど、そこからまた迷いはじめて……という流れが、イフィーを入れることで決まりました。 ──観客の目線としても母の“本心”を知るための映画と思って入ったんですけど、イフィーが出てきたことで、それだけじゃない映画なんだなという認識になりました。 母の“本心”を知ろうとしたら、別の問題も押し寄せてきてさらに迷っていった、ということですね。迷子になる中で、朔也自身は自分のことも見失っていった。もっと言うと、これは映画をつくってみての僕の実感ですが、人の“本心”も自分の“本心”もよくわからないけど、一番わからないのは世の中だなと。世界の“本心”がわからないというところに辿り着きました。 ──世界の“本心”とはどういうことでしょう。 たとえば、戦争がダメなことくらいみんなわかっている。だけど、実際に世の中から戦争はなくなっていない。それってなぜなんだろうと。しかも世界は、どんどんワケが分からないものになっていってます。AIにしても、医療や健康といった分野で有効活用されることで、私たちの生活がより良いものになっていくということはあるんだと思います。ただ、それが本当に人の幸福に結びつくと世の中全体が思っているのかどうかが僕にはわからない。 はじめに話した不安や恐怖というのも、結局そうした世界の“本心”がわからないことで、自分だけが世の中から取り残されているというか、排除されているような感覚になるからなんですよね。