ものづくりにはなぜ“自信”が必要?石井裕也が考える映画の存在意義と「心を描くこと」の重要さ
映画は社会問題をどこまで描くべきか
──監督は、そういった解き明かしたい何かがあったとき、映画づくりを通じて最終的に自分の答えは出るタイプですか。それとも、答えが出なくてもいいと思いながら映画をつくっていますか。 ケースバイケースですね。ただ、僕自身の考えとしてなんですけど、映画の中で答えなんか出さなくていい、問いさえあればいいという考えがあるじゃないですか。でもそれだと、じゃあ何のためにその映画があるのかなという疑問があるんですよね。暫定的な結論でも、やっぱり出さなきゃいけないと思うし。ただ答えを出したら出したで、映画が説教っぽくなるリスクがある。そこのうまいバランスを探る必要があるんだと思います。 ──『月』でも、さとくんが作家である主人公に対し、作家は安全圏で書いているだけという、ある種の監督への自己批判を孕んだような台詞を言います。こうした社会問題を題材にしたとき、その問題に対しつくり手がどれくらい踏み込んで答えを出すのが誠実であるかは、きっと監督も迷われながらやっているのではないかと感じました。 すごく難しい質問ですが、一番重要なのは、どういうつもりで生きていくかという心のありようを丹念に描くことだと僕は考えているんですね。ただ、映画としてそういうところに問題を帰着させようとすると、問題の原因は社会システムにあるはずなのに、結局個人が頑張るしかないのかという批判が生まれる。その声も、理解はできます。 映画には、社会を変革し得る力があるし、実際そうした歴史もこれまであったんだとも思います。ただ、いちつくり手としての僕の興味はあまりそこにはないのも確かです。それよりも、人の心のありようを描くことで、観客のみなさんに何かを残せたら、それがきっと観てくれた人の中で何か力のあるものへと育っていくんじゃないかと、そう祈りながら映画をつくっています。 ──それにしても、母役を演じた田中裕子さんが素晴らしかったです。庶民的な匂いがしながら、謎を持っている。 もうその通りですよ。本当に普通の人という感じもするんですけど、さわろうとしてもまったく捉えきれない底の深さみたいなものを感じました。いろいろお話はしてくださったんですが、結果よくわからないっていう感じですかね。本当に謎めいた俳優でした。 ──踊るような仕草だけでも、情感が漏れ出てくるんですよね。お芝居の情報量がすごく濃い。 ご本人は迷いながらやってるとおっしゃっていましたけど、そうは見えないですよね。僕は“芝居性”というものに興味があって。要するに、脚本に書かれている通りにお芝居したときに、はたしてそれは嘘なのか真実なのか、そういうことにすごく興味があるんですね。 今回は『本心』というタイトルもあって、すべての俳優がその“芝居性”というものを試されていて。中でも田中裕子さんはその“芝居性”と戯れていた印象があります。普段どんなふうにお芝居をされているのか存じ上げないので断定はできませんが、きっといつもと少し違うアプローチだったのではないかなと。こっちが捉えようと思っても、その通りに捉えさせてくれない。とても高尚な大人の遊びをされていたように見えました。