明治の日本にやってきたアメリカ人が感心した…「東京という都市のスゴさ」をご存知ですか
死亡率が圧倒的に低い
日本とは、どんな国なのか。社会が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えた人も多いかもしれません。 【写真】エドワード・モースはこんな顔でした…! 日本という国のあり方を、歴史的に考えるうえで重要な視点を授けてくれるのが、『日本その日その日』(講談社学術文庫)という書籍です。 著者は、エドワード・S・モース。1838年にアメリカのメイン州に生まれた動物学者です。 1877年6月、39歳のモースは、日本近海に生息する「腕足類」の標本を採集するため、日本にやってきました。日本には2年間滞在するのですが、そのあいだに大森貝塚を発見したことでよく知られています。 本書は、モースが日本で見聞きしたことをつぶさにつづった一冊です。当時の日本のありようが、一人の研究者の目をとおして、あざやかに浮かび上がってきます。 たとえば、日本に到着したあと、東京の街をめぐったモースは、東京の人々の死亡率がきわめて低いことに驚いています。彼はその理由を以下のように推測しています。『日本その日その日』より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 *** 東京の死亡率が、ボストンのそれよりもすくないということを知って驚いた私は、この国の保健状態に就いて、多少の研究をした。 それによると赤痢及び小児霍乱は全く無く、マラリヤによる熱病はその例を見るが多くはない。リューマチ性の疾患は外国人がこの国に数年間いると起る。 しかし我が国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は日本には無いか、あっても非常に稀であるらしい。 これは、すべての排出物質が都市から人の手によって運び出され、そして彼等の農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかも知れない。 我が国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。そして腐敗と汚物とから生ずる鼻持ちならぬ臭気は公衆の鼻を襲い、すべての人を酷い目にあわす。 日本ではこれを大切に保存し、そして土壌を富ます役に立てる。東京のように大きな都会でこの労役が数百人の、それぞれ定まった道筋を持つ人々によって遂行されているとは信用出来ぬような気がする。 桶は担い棒の両端に吊るし下げるのであるが、一杯になった桶の重さには、巨人も骨を折るであろう。 多くの場合、これは何哩も離れた田舎へ運ばれ、蓋のない、半分に切った油樽みたいなものに入れられて暫く放置された後で、長柄の木製柄杓で水田に撒布される。 土壌を富ます為には上述の物質以外になお函館から非常に多くの魚肥が持って来られる。元来土地が主として火山性で生産的要素に富んでいないから、肥料を与えねば駄目なのである。日本には「新しい田からはすこししか収穫が無い」という諺がある。 *** 東京という都市の、意外な先進性を知ることができる一節です。 【つづき】「1877年6月、日本にやってきたアメリカ人が「日本の赤ん坊」を見て驚いたワケ」の記事では、引き続き当時の日本についてのモースの観察を紹介します。
学術文庫&選書メチエ編集部