東京スカパラダイスオーケストラ35周年。ドラマー・青木達之との1982年を思い出す
高校の同級生に「青木」という名の男子が2人いました。ケンカ青木とバンド青木。後者は顔面青木とも呼ばれてました。ケンカにめっぽう強い青木と、バンドをやっている青木。背の割に顔が大きかったから顔面青木と呼ばれることが多かった。やがて東京スカパラダイスオーケストラのドラマーとなり、小泉今日子などに楽曲を提供するようになった青木が高校1年生だった頃の話です。 今年はスカパラは35周年だそうです。君が亡くなって25年。年月を感じるお墓を前にして、伸びた草を刈った。いまだに何者でもないオレが、天才と呼ばれた君とのさりげない日々に思いを巡らせようと思う。君への言葉をいま書き残しておかねばならないと思ったから。 【写真】海軍の司令部として使用された慶應義塾高等学校・正面玄関 * * * * * * * ◆スカパラ35周年と青木が亡くなって25年 2024年4月、NHK『朝イチ』からは、東京スカパラダイスオーケストラが35周年を迎えたことが流れていました。朝の時間帯には似つかない華やかな演奏の後、メンバーのエピソードが語られている。もう35年ということは、君が亡くなってから25年経ったということ。映像をぼんやり眺めながら、君がもし生きていたらどうしていただろうか。そう考えていたらあの蒼い空を思い出しました。 オレ「どう調子は?」 青木「まぁ。いろいろあって大変」 オレ「そっか」 青木「そうそう。あいつ。ゴリ松にババ(タバコのこと)で捕まったみたい」 オレ「バカじゃないの」 青木「明日の朝には正面玄関に貼られるね」 ひとの停学をネタに他愛もない会話をしたあの日。白い校舎に蒼い空がキラキラしていました。
◆あの日から変わったもの、変わらないもの 日吉の丘に建つ慶應義塾高等学校の校舎は、1934年に曾禰中條建築事務所の網戸武夫によって設計され、鉄筋コンクリート製の3階建てとして建てられました。太平洋戦争中は海軍の司令部として使用され、終戦後は進駐軍である米軍に接収されました。 そのためか、教室のドアは分厚い鉄製で非常に堅牢にできています。バネなどの仕掛けがないため、勢いよく閉めて手を挟んだら指が切れそうなほどでした。 トイレは冬は寒く夏は暑い。そしてタバコを吸うための場所でもありました。現在の南側グラウンドは人工芝になっていて、土埃に悩まされることはないでしょうけど、当時の南側グラウンドは土だったので、土埃でいつも机は埃っぽかった。登校して最初にすることは、トイレットペーパーの芯を抜いて楕円形にし、机や椅子を拭いてきれいにすること。そのトイレットペーパーは眠るための枕にもなりました。 1学年18クラス、男子学生が約850名のマンモス校。巨大な校舎に、トイレは南側と北側2ヵ所にしかありません。休み時間の混み具合が想像できると思います。君と最初はただの顔見知りに過ぎませんでした。 ケンカ、タバコ、廊下に置かれた謎の巨大なうんこ。毎日が事件の連続だった気がします。トイレでの何気ない会話が、君との初めての出会いでした。君は慶應普通部から、オレは中等部からの進学。まだ高校1年生で、学生服の詰め襟にカラーを入れていました。お互いにウブでした。 オレ「最近、片岡義男にハマってるんだ」 青木「へぇ。どんな本?」 オレ「バイクとかサーフィンやってる主人公が多いかな。あとステーションワゴンに乗ってる綺麗な女性がよく出てくる」 青木「いいな。海でも行きたいよ」 オレ「こんど行こうよ。逗子とか」 青木「うん。もう夏だねぇ」 遠い目で話す君は、少しブラウンのような灰色がかった目をしていました。結局海に行くことはなかったけど、はっきりと憶えています。静かに笑みを浮かべ、落ち着いて語る君の声からは、生まれ持った賢さというか、一見控えめだけど「揺るぎない芯の強さ」があったのだと。