”平成の大横綱”白鵬が引退会見で明かした真実…「型にこだわらない」相撲道が生んだ”功罪”とは?
横綱に昇進した頃、”昭和の大横綱”である故・大鵬との親交があり、「横綱というものを宿命の中で頑張らないといけない。負けたら引退」」との「重たい」言葉をもらった。 白鵬は「土俵の上では手を抜くことなく、鬼になって勝ちに行くことこそが横綱相撲と考えてきました」という。 信念に従い「勝ち」を突き詰めたが、膝などの故障で正攻法では勝てなくなった。それでも「勝ち」にこだわった結果、横綱の品格に欠くと批判された乱暴なかち上げや立ち合いの変化につながったのかもしれない。 白鵬も「その一方で周りのみなさんや横審の先生方に最終的にその期待に応えることができなかったかもしれません」と話した。 怪我が原因で6場所連続休場となり、横綱審議委員会からは、引退勧告に次いで重い「注意」を決議された。だが、白鵬は最後まで「勝ち」にこだわり続けた。 21年間のうち最も記憶に残る取り組みを聞かれ、「ひとつは選べません。2つにしたい」と言い、2つの“金星“を挙げた。 最初に挙げたのは2004年九州場所で、当時、19歳の白鵬が、横綱・朝青龍を送り出しで破った金星である。もうひとつは2010年の同じく九州場所で前頭・稀勢の里に配給した金星。連勝が「63」でストップ。大横綱・双葉山の持つ偉大な連勝記録「69」を更新することはできなかった。 「あの負けがあるからこそ、63連勝にふさわしい相撲を取らなきゃいけない、恥ずかしくない相撲を取らなきゃいけないという思いでここまで来られたと思います」 協会やオールドファンからは、その品格を疑われ続け、嫌われたが、一方で聡明で気遣いや社交性に優れた白鵬はメディアには人気があった。ベテラン記者であろうが新人記者であろうが分け隔てなく接した。 相撲メディアの1人は「モンゴル巡業の際に現地で政府の要人が出席する大人数のパーティが開かれたのですが、末席にある日本の報道陣のテーブルにわざわざ“遠いところまでありがとうございます”と挨拶に来て、みんなで乾杯しました。彼を嫌いな記者はいないのではないですか」と証言した。 また白鵬は2011年から国際親善交流相撲大会である「白鵬杯世界少年相撲大会」を立ち上げ、“第二の白鵬“の育成、相撲界の底辺拡大にも尽力してきた。 「この大会がもう10年になりますけど、すでに大会で活躍した子どもが入門し、自分とも対戦し、場所でも負けましたし大会の花は咲いているのかなと思います」との自負もある。 後継者も生まれた。 白鵬が引退を決意した名古屋場所後に照ノ富士が横綱に昇進。秋場所で優勝した。白鵬は「名古屋場所で肌で感じ、バトンタッチ、後を託せるなと感じました」と、“後継者”として認めた。 さて気になるのは親方としての今後である。 「優しさと弟子思いの親方になっていきたい」 望んでいた一代年寄取得は見送られ、すでに取得していた年寄名称「間垣」の襲名を「品位を汚す行動はしない」などの誓約書に署名する異例の形で認められた。 今後は部屋付き親方として後進の指導にあたるが、来年8月に宮城野親方が定年となるため、白鵬が部屋を継承すると考えられている。その際、名跡を変更するのか、宮城野部屋を継承するのかは未定だが、すでに日本橋に土地を押さえており、現在、墨田区にある部屋を移転する計画があるという。日本を訪れる外国人にも日本の相撲文化を知ってもらうランドマーク的な存在にしたいとの壮大なプラン。また協会の仕事もスタート。まずは新人親方の仕事である警備担当から始まることになりそうだが、「第2の貴乃花となることを協会は恐れている。異例の誓約書にもその抑止力とする意味が込められている。今後、幹部として出世していくためには、横綱時代とは、打って変わって品行方正な行動が必要とされるだろう」(相撲関係者)との声がある。 「横綱というより、この大相撲と出会ったことが、私の全てだし、そして私を選んでくれた師匠と出会ったことに感謝です。相撲から離れれば私は何もできないものでありますので、本当にこの20年、相撲には感謝しています」 いろんな意味で注目を集めた平成の大横綱の第二の人生がスタートする。 (文責・論スポ、スポーツタイムズ通信社)