朝鮮の砂金や樺太の漁業……「無から有」南の事業哲学 南俊二(中)
戦後日本の「三大億万長者」の一人と称された南俊二。浮き沈みが激しく、事業で儲けては相場で損する前半生でしたが、第2次世界大戦の後はそれまでの軍需インフレや復興景気の波に乗って大儲け。相模鉄道の社長を経て、大阪造船所を創設するなど、実業界にも足跡を残しました。一途に金儲けに励み、稼いだ巨富を惜しげもなく新規事業につぎ込む南の事業哲学は「無から有を生じること」。指折りの金持ちになった後も、お手伝いさんもいない至って質素な生活を送っていたといいます。 【画像】ただ一途に金儲け 名誉欲を超越した三大億万長者 南俊二(上) 市場のグローバル化やテクノロジーの進化で、先行きの見通せない現代の経済界に、伝えるべき過去の経済人の足跡を紹介する新連載「野心の経済人」。市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。 今回は3回連載「南俊二」編の第2回です。
「相場はやらない」と妻に誓ったが……
明治末(1912)年、失意の南は神戸を去り、東京で再起のスタートを切る。不屈の闘志で東京・深川佐賀町に拠点を築き、期米(定期米=先物)のブローカーを開業、自らも思惑をやってのける。 先年、夫人に「もう相場はやらない」と誓った南だが、好きなものは何とやら、またぞろ先物投機市場にカムバックする。第1次世界大戦(1914~1918年)の勃発で市場は乱高下するが、うまく波に乗り大勝利を収める。以前、第一銀行に大きな借金をこしらえていたが、この時、一気に全額返済したため、同行の佐々木頭取は「催促なしで金を返したのはお前と山下亀三郎(山下汽船創始者)だけだ。今後お前が仕事をやるときはできるだけ応援しよう」と、大喜びしたという。 このころ、海運市場で大儲けしたいわゆる“船成金”は十指に余るが、なかでも山下は内田信也、山本唯三郎とともに三大船成金と呼ばれた。勝田銀次郎を加えて船成金四天王などとも称された。 だが、かつてない大戦バブル景気には、未曾有の強烈な反動が襲来する。大正9(1920)年3月15日の市場パニックで船成金たちは元の歩に逆戻りするが、南もすってんてんとなり、失意の時に逆戻りする。事業で儲けて、相場で損する――というパターンが南の前半生であった。