朝鮮の砂金や樺太の漁業……「無から有」南の事業哲学 南俊二(中)
「つまらない商売」鉄道会社の社長退任
南が請われて相模鉄道の第3代社長に就任するのは大正14(1925)年のことだ。神奈川県茅ケ崎から寒川まで8キロ余りの田舎鉄道だが、鉄道会社社長と言えば、ちょっとした名士である。だが名誉欲のかけらもない南は、6年後に社長のポストを返上する。 社長を降りた理由がいかにも南らしいではないか。「こんな楽な商売はない。ちゃんと切符を買って人が乗ってくれる。時間が来れば運転手は車を動かしてくれる。いつまでやってもつまらない商売だ」 ちなみに南の次に一人を挟んで第5代社長に就いたのは金万証券社長の南波(なんば)礼吉だった。南波は兜町のボス。 南の事業哲学の第一章は「無から有を生じること」。そこに新規事業開発の喜びを見出すのだが、いったん開設された鉄道事業に、その喜びは得られなかった。そこで南は事業の醍醐味を求めて朝鮮に渡る。朝鮮の砂金採取で一山当てようと、かつての商売仲間、岩崎清七に資金援助してもらう。先に第一銀行の佐々木頭取から「君の仕事は応援するよ」との言葉をもらっていたが、「砂金」や「鉱山」のようなリスクの大きい仕事への融資には第一銀行も二の足を踏んだに違いない。 「平壌の奥深い事業地から月1貫500目~2貫目の砂金を内地に運ぶことができた。当時のカネで100万円、今日の3億円(昭和28年当時、現在なら数十億円見当か)のカネを掌中にすることができた」(三鬼陽之助著「億万長者への道」) この砂金採取事業での儲けは南の事業人生で最大級のカネ儲けであった。 「無から有を生じる」南哲学は、朝鮮の砂金採取と相前後し、樺太(サハリン)、北海道で石炭や漁業を手掛けたり、熱海に近い真鶴沖ではえ縄漁をやったり、八方に手を広げる。中でも北樺太の炭鉱や漁業はまさにハイリスク・ハイリターンの国際的事業であった。
「最低生活できればいい」贅沢の観念なく
南が造船、鉄板など重工業に乗り出すのは昭和9(1934)年のことだ。三大億万長者の1人でホテルニューオータニの創業者の大谷米太郎と手を結び、岩崎清七の支援を得て、軍需産業の道を突き進むことになる。初めに神奈川県鶴見に鉄板工場を東京製鉄として立ち上げると、2年遅れて大阪造船所を発足させる。やがて大阪造船所に一本化される。 「工員の労働意欲を巧みに誘い、自らも朝は一番早く戦闘帽をかぶって工場に姿を見せ、工場の入り口で『おはよう。今日もよろしく頼みます』と工員一人一人に挨拶をしたものである。しかも、南の場合工員以上の簡素な生活に徹し、心から増産を誓うのだから、超人的なスピード建造が必然的に生まれてきた」(億万長者への道) 建造時間の最短記録を達成すると、時の東条英機首相から表彰状を贈られるが、人使いのうまい南社長は「金を儲けるということは得た金を自分の事業に注ぎ込みたいからで、立派な邸宅に住むとか遊ぶとか、そういう観念は毛頭ない。自分は最低生活できりゃいい」のだそうだ(宝石・昭和50年3月号)