明治~大正時代を舞台とした少女のサバイバル物語ーー永嶋恵美『檜垣澤家の炎上』がメチャクチャ面白い
読み続けていた作家が、いままでと違うタイプの作品を発表する。しかも内容が、メチヤメチャ面白い。そんなとき私は、「この作家、化けたな」と思ってしまう。もしかしたら作家にとっては、昔から温めていた題材かもしれない。いろいろな事情で、今まで書けなかっただけなのかもしれない。だから〝化けた〟という表現は正しくない可能性がある。それでも読者の立場から見れば、突然の作風の変化に驚いてしまう。だから〝化けた〟という言葉を使いたくなるのである。そして永嶋恵美の『檜垣澤家の炎上』は、まさに〝大化け〟と呼ぶしかない傑作なのだ。 周知のように作者は、映島巡名義でゲームや漫画のノベライズを手掛ける一方、永嶋恵美名義で『一週間の仕事』『視線』といった、優れたミステリーを上梓している。また、「泥棒猫ヒナコの事件簿」という人気シリーズも持っている。そんな作者が新たに挑んだのが、明治から大正時代を背景に、横浜の富豪一族に引き取られた少女の成長物語である。いや、たしかに成長しているが、サバイバル物語といった方がいいか。それほどヒロインの置かれた状況は過酷なのだ。 日露戦争が始まった明治三十七年に、高木かな子は生まれた。父親は横浜を代表する豪商「檜垣澤商店」の当主の要吉。母親は、その妾のひさ。要吉が病で倒れ訪れることがなくなり、さらにひさが火事で死亡したため、七歳になったかな子は、横浜の山手にある檜垣澤家に引き取られる。現在の檜垣澤家は、商売も屋敷も要吉の妻のスヱが仕切っていた。また、スヱには花と初という娘がいる。さらに花には、郁代・珠代・雪江という三人の娘がいた。女性の力が強い、典型的な女系一族といっていいだろう。 腹の底の見えないスヱ。どこか薄気味悪い初。かな子を都合よく使う珠代と、妹扱いをして引っ張り回す雪江。姑息ないじめをする女中たち。四面楚歌のような状況で、母親から仕込まれた処世訓を頼りに、かな子は生きていくのだった。 幼い頃からかな子は、非常に聡明である。世話をしていた父親が亡くなると女中のような扱いになるが、したたかに立ち回り、檜垣澤での居場所を確保しようとする。女学校に通わせてもらうことに強いこだわりを持っており、スヱと交渉したこともある(スヱの本心が吐露されるこの場面は、本書の読みどころのひとつだ)。なぜなら学んだ知識は、誰にも奪うことができないからである。 そんなかな子の根底にあるのは、檜垣澤家でいいように扱われることへの怒りであろう。父親の要吉を慕っていた彼女は、檜垣澤家の一員であるという意識を持ち、自分の権利を手に入れようと、ひそかに力を蓄えているのだ。物語の時間は十数年にわたり、エピソードは山ほどある。スヱの手の平の上で転がされながら、しだいに他人を転がす術を覚えていくヒロインの姿に、一喜一憂してしまうのである。大逆事件・欧州大戦(第一世界大戦)・戦後恐慌・スペイン風邪などの史実が、直接間接絡まってくる骨太なストーリーも、大いに楽しめた。 さらに本書は、読みごたえのあるミステリーにもなっている。まだ幼かった頃のかな子は、檜垣澤家の蔵から火が出ているのを発見。さいわいにもボヤで済んだが、蔵の中から、花の夫で、婿養子の辰市の死体が見つかる。事故死として処理されたが、本当にそうだろうか。後半になって真相が露わになると、そこから怒涛の展開。新たな事実と真実が、次々と明らかになり、圧倒されてしまうのだ。ミステリーとして見ても、今年の収穫と断言できるのである。 ところで、母親の死から始まり、まだ短いかな子の人生は、妙に火事と縁がある。タイトルが『檜垣澤家の炎上』なので、いささか突っ込んで書いてしまうが、本書は火事に始まり火事に終わる物語ともいえる。もともと当時の横浜は火災が多かったようだが、火事の多用は意図的なものであろう。 これに関連して、かな子が横浜のことを、「火難の地ですから」といっていることに注目したい。この言葉で私が連想したのは、パレスチナ地方の古称である〝カナン〟である。旧約聖書では、神がイスラエルに与えた約束の地とされている。かな子(この名前もカナンを連想させる)にとって、横浜は、檜垣澤家は、約束の地なのだろうか。実はまだ分からない。物語は彼女が、新たな人生に踏み出すところで終わるからだ。 書評では詳しく触れなかったが、女学校でかな子と親友になった東泉院暁子、かな子の人生の節々に現れる西原匡克、かな子と縁を持つある人物など、檜垣澤家以外にも重要な登場人物が何人もいた。彼らとの今後の関係も気になる。だから作者にお願いしたい。昭和戦前篇と戦後篇も執筆して三部作にしてもらえないだろうか。かな子という魅力的な女性と、その周囲の人々の一生を、知りたくてたまらないのである。
細谷正充