旅客機を造れない日本がロケットは造れるわけ
その後2015年の初号機初飛行の時は、「これはいけるかも」と思ったりもしたのだが、結果はご存じの通りである。 驚いたことに国交省も一緒になって冷たい水に飛び込んで足がつってしまった。旅客機の型式証明を審査する能力がなかったのだ。結局機体をアメリカに持っていって開発せざるを得なくなり、そのアメリカでも開発を完遂することができなかった。 そこから何か学ぶことはなかったのだろうか。 経産省が3月27日に公表した「我が国航空機産業の今後の方向性について」をはじめとした資料を読んでも、「これで2035年以降に次世代国産旅客機の事業化ができると考えているなら、相当おめでたいな」という辛辣な感想しか湧いてこない。 ●私案・日本で旅客機を造るには ではどうすればいいのか。 まず、最初に行うべきは航空法第11条を改正して、試験機を飛ばしやすい法的環境を整備することだ。 その上で、小さく始めるしかない。それこそ鳥人間コンテスト出身あたりで意欲のある若者のグループに補助金を出して、ペンシルロケットのような小さくてショボい航空機――を多数、それも何回も開発させる。大きかろうが小さかろうが、飛行の原理は同じだ。空を飛ぶ機械を設計する勘所を押さえることができる技術者を、小さくてショボいけれど実際に人を乗せて飛ぶ機体の開発を通じて育成していくしかない。並行して、小さくてショボい飛行機で空を飛ぶ趣味を振興し、国内市場をつくっていく。機体開発と製造・販売で食っていける環境がなければ、技術者は生きていけない。 さらには国交省の航空局からできるだけ多くの人材を選抜して、アメリカに10年位の長期で航空行政の勉強に行かせるべきだろう。どんな機体を国内で開発しても、行政が型式証明を出す能力がなければどうにもならない。アメリカから機体審査の経験者を“お雇い外国人”として高給で招請し、5年とか10年くらい航空局長として働いてもらうというのもいいだろう。 早い話、明治時代の文明開化と同じことをやるわけだ。 経産省が考えているような産業振興策は、その次だ。ショボい小さな機体をゼロから開発する経験を重ねた人材が育ってきた時に、より大きな機体を開発する場を用意するのである。大きな機体といっても、まずは型式証明を取得する軽飛行機からだろう。いきなり旅客機を造ると、またもや足がつるということになるだろうから。 ●風呂場から始まる大冒険 私は、大変幸運なことに、40代から50代にかけて、「小さくショボく始めたものが大きく育つ」という経験を、ロケットで自ら味わう経験ができた。今、北海道で衛星打ち上げロケット「ゼロ」を開発している宇宙ベンチャー、インターステラテクノロジズ(北海道大樹町)の前身、なつのロケット団に参加することができたのである。 発案者であるエンジニアの野田篤司さんから「ロケットつくるよー」というメールが届き、なんのこっちゃいと、マンガ家のあさりよしとおさんの仕事場に赴くと、そこではイラストレーターの小林伸光さんが背中丸めて、5/16インチ径(約8mm)のパイプを黙々と切断し、推力30kgエンジンのテストスタンドを作っていたのだった。なぜインチ規格のパイプかというと、航空宇宙向けの信頼性の高いパイプの継ぎ手がアメリカ製で、インチ規格しかなかったのである。 肝心のエンジンは野田さんに加えてSF作家の笹本祐一さんとあさりさんが、町工場を回って作ってくれるところを探した。「向こうにしてみりゃ、自称SF作家と自称マンガ家が、突如やってきて“ロケットエンジン作ってよ”って言うんですぜ。こんな嘘くせー話があるかって」と笹本さんは言っていた。 テストスタンドの構造部は、ホームセンターで買ってきたL型アングルだった。最初の水流し試験は、あさりさんの仕事場の風呂場で行った。千葉の鴨川で行った最初のロケット噴射試験は、たった2秒だった。 そんなところから始めても、衛星打ち上げロケットを造るところまでいけるのだ。しかも社名はインターステラ(恒星間)だ。「夢はでっかく、手は低く」だ。 というわけで、今回もまたハナ肇とクレージーキャッツの「大冒険マーチ」で締めくくることになるのである。大冒険は「チョイと100円貸してくれ」から始めましょう。それが結局一番の近道だから。 ちなみに(この記事が日経ビジネスのサイト上で公開された)本日4月12日は、ペンシルロケット実験の初公開日(1955年)で、ガガーリンの世界初の有人宇宙飛行の日(1961年)で、スペースシャトル初打ち上げの日(1981年)です。
松浦 晋也