旅客機を造れない日本がロケットは造れるわけ
失敗からなにも得られなかったのが最大の失敗
YS-11は開発も販売もトラブルの連続だった。だが、とにもかくにも型式証明を取得して就航し、182機を生産し、海外の航空会社にも販売した。確かに日航製は赤字だった。出向者の寄り集まりで、経営はいい加減だった。原価計算もずさんなものだった。海外での販売では足元を見られ、大幅な値引き販売を余儀なくされたりもした。 しかし、YS-11を開発したことで、「旅客機とはこういうものだ」ということを実際の開発で痛い目に遭いつつ学んだ技術者、さらには海外での販売経験を積んで「旅客機はこういう商品だ」ということを理解した営業マンが育ちつつあった。 YS-11は未知の技術、ビジネスへの最初の一歩だったのだ。ここで発生した赤字は人材育成費用と考えて、次の新機種に進むことができれば、今ごろ日本は旅客機生産国になっていたかもしれない。しかし、当時の日本の政治も行政もそうは考えられなかった。最初の一歩の失敗、ではなく、日本に旅客機製造は無理だ、と受けとめた。 1971年7月、YS-11は生産中止となった。日航製は、売った機体のアフターサービスのために存続したが、次の機体を開発するわけではないので、もうそこには希望はない。規模は縮小され、せっかくの人材は散り、最終的に1982年に解散した。 オールジャパンで始めたことだから失敗したら全員が敗者だ。結局後に何も残らなかったのである。 旅客機産業は、「華々しく船上パーティーを開催しているが、甲板の板子一枚下は地獄」という業界だ。 自動車産業のような、大量生産で儲ける商売ではない。世界的大ベストセラーになったボーイングB747旅客機だって、総生産機数は1574機でしかない。数が少ないので、基本は受注生産で機体は高価。高価な機体は長期に渡って使われるので、それに合わせて確実な部品供給とアフターサービスを継続しないといけない。しかも事故が起きれば多数の死亡者が発生し、あっという間にブランドは毀損される。 過酷な業態なので、アメリカでは次々にメーカーが脱落して、ボーイング1社に集約されてしまった。そのボーイングも過去には何度か倒産の危機を経験しており、しかも今や1社独占の弊害からか安全管理がおろそかになっていたことが判明しつつある。 一方欧州は、旅客機産業が過酷かつ恐ろしい業態であることを見抜いて、それでも「先進国たるもの、旅客機産業を持たねばならぬ」というポリシーを掲げて、国策企業であるエアバスを設立した。その上でエアバスを国家が徹底的に支援し、国際的な一大産業に成長させた。 だから、1970年の時点で、日本政府はYS-11の赤字など気にしてはいけなかったのだ。欧州がエアバスを徹底的に保護して育てたように、日航製を潰すことなく支援し、歯を食いしばり、たとえ赤字でもYS-11の製造と販売を続け、次世代機の開発に進んでいれば、少なくとも旅客機開発のなんたるかを知る技術者の分厚い層が形成されたはずだ。 1970年の時点では、東京大学から日本大学に移った木村秀政教授をはじめ、かつて実際に多数の航空機を設計した経験を持つ設計者たちが教育者としてまだ活動していた。それらの門下の卒業生が、日航製に就職し、さらなる新型機の開発に従事するという人材の流れができていれば、旅客機産業も、ロケットと同様、21世紀に生き残ることができたのではなかろうか。 しかし、そうはならなかったのである。 ●「なにも残っていない」という事実からも目を背けたMSJ 2003年にMSJの開発がスタートした時、「大丈夫かな」という危惧を感じた。三菱重工業が開発主体となるので、日航製のような意思決定の混乱は起きないだろう。それはいいが、機体を開発する技術者の人材育成が途切れてしまっている。いくらその間自衛隊機の開発を続けてきたといっても、旅客機と軍用機は設計の勘所が異なる。 また、ボーイングやカナダのボンバルディアの機体コンポーネントを製造してきたといっても、受け取った図面に合わせて機体の一部を造るのと、旅客機という複雑なシステムをゼロから開発するのは全く違う仕事だ。しかも、事前に小さな機体を開発して手慣らしをするということもしていない。 「長い間体を動かしていなかったのに、準備運動もせずにいきなり冷たい水に飛び込むと足がつるぞ」――というのが、正直な感想だった。