旅客機を造れない日本がロケットは造れるわけ
そうやって育った人材を受け入れる科技庁系ロケットは、アメリカの「デルタ」ロケットの技術導入から始めて、「N-I(N1)」(1975年初打ち上げ)、「N-II(N2)」(同1981年)、「H-I(H1)」(同1986年)と、こちらもほぼ5年に1機種の割合で新ロケットを開発し続けた。続く完全国産を目指した「H-II(H2)」(同1994年)は、さすがに開発に9年かかったが、そこで止まらず改良型といいつつ実はほぼ全面再設計の「H-IIA(H2A)」(同2001年)につなげた。 ペンシルロケットで小さく始め、短いサイクルで次々新型を開発し、しかも文部省・科技庁の二頭立て体制で結果的に人材育成のサイクルがうまいこと回った――だから、日本のロケットは途中で途切れることなく、21世紀に生き残ることができたのである。 ●NASDAと日航製は何が違ったのか では旅客機はどうだったか。 先に述べた通り、1957年に通産省の赤澤課長が、財団法人輸送機設計研究協会を設立したことで、後のYS-11開発計画が動き出した。ここで、赤澤氏は頑張ってすべての日本の航空産業の力を結集して、新たな旅客機を開発しようとした。 今の言い方をすれば、オールジャパンの体制を作ろうとし、実際それは、1959年に旅客機を開発する特殊法人の日本航空機製造(日航製)の設立という形で具体化する。 ちょうど、宇宙開発のためにNASDAを設立したのと同じ構図だが、このオールジャパン体制がよくなかった。日航製に、三菱重工業以下各メーカーから出向者が集められてYS-11の開発に当たったのだが、みな出向元が有利になるように動いたので、日航製は「船頭多くして船山に登る」という状態になってしまったのである。 実はNASDAも同様に出向者を集めたのだが、次々にロケットや衛星を開発していったので、「今回はお前の会社に泣いてもらうが、次はそっちに仕事を回す」というような日本的内輪の調整が可能だった。だから出向者といってもあまり出向元の顔色をうかがうことなく働くことができた。 ところが日航製はYS-11しか開発しておらず、しかもYS-11は海外への販売を目指す商品であって、ワークシェアが出向元の収益に直結する。このため、四分五裂で意思決定がままらない組織になってしまった。 そんな組織が、ペンシルロケットのように「小さく始めて、素早く開発サイクルを回し、まず経験を積む」というステップも踏まずに、いきなり大きくて実用に使う旅客機の開発に乗り出したのである。 背景にあったのは「敗戦までは多種多様な軍用機を開発していた経験があるのだから、旅客機だって造れる」という自信だろう。ところが性能第一の軍用機と、安全性優先で使いやすく運航コストが安いことが要求される旅客機では設計の勘所が全く異なり、YS-11は一度まとめた後で、旅客機として使いやすくするための改修に追われることとなってしまった。 またロケット開発では、科技庁と文部省がどっちの管轄かで争ったが、YS-11では通産省と運輸省とが対立した。 ロケットでは文部省も科技庁も、ロケットを研究開発するという点では同じ方向を向いていて、双方がそれぞれ独自のロケットを持つということで決着した。 旅客機開発では、通産省と運輸省がそれぞれ旅客機開発構想を持ち、どちらが管轄するかで争った。YS-11では、通産省が国際的なビジネスの商品としての旅客機開発を後押しする一方で、運輸省は既存の社会システムに新型旅客機が適合するかどうかを審査するという形で決着した。つまり通産省が旅客機開発を進める一方で、運輸省は安全面から新規開発をけん制する立場となった。ところが、運輸省が新型旅客機の安全性をきちんと審査できるかといえば、YS-11を開発した1960年代半ばの時点ですでにかなり心もとない状態になっていた。結局型式証明を出すに当たっては、アメリカの力を借りることになった。 と、いろいろな齟齬はあった。しかし最大の失敗は、YS-11の開発を担った日航製をさっさと解散してしまったことだろう。