旅客機を造れない日本がロケットは造れるわけ
「アメリカに出張した時に、向こうの地方空港でDC-3がいっぱい飛んでいるのを見たんだ」 ダグラスDC-3は、1935年に初飛行した、プロペラ双発の旅客機だ。世界的なベストセラーになり、第2次世界大戦中は輸送機として使われ、それが戦後余ってしまい、軍の放出した機体が世界各地を飛んでいた。 「その時、当然DC-3も古くなるから後継機が必要になる。それを(日本が造って)売り込もうと考えたんだよ。そうしたら通産の赤澤君が『おい、そのアイデアよこせ』と言ってね。で、YS-11が始まったんだ」 ひとしきりYS-11の失敗を嘆いてから、井上氏は言った。 「ボクはYS-11が初飛行した時にね。技術者たちに『さあ、明日から後継機を開発しよう』と言ったんですよ。旅客機を買う航空会社にしてみれば、次々と後継機が出てくる保証があればこそ、安心して機体を買えるわけだから。でも技術者たちは『疲労困憊(こんぱい)してとても後継機のことなど考えられません』と言ったんだ。その瞬間ボクはYS-11は失敗すると判断したんです」 いや、ジェットさんあきらめ早すぎでしょ――井上氏はとにかく話がぽんぽんと飛ぶ方だった。 草創期科技庁の宇宙開発の話を聞くはずだったのに、「今興味を持っている」という古代ケルトの遺跡の話を突然始めたり、かと思うと、日本航空に勤務していた時に気が付いたという流星群と降雨の関係の話になったり。要するにありとあらゆることに興味がありすぎて、次々と面白そうなことに頭を突っ込んでいく人だった。 そういう井上氏が、YS-11失敗の原因を「すぐに後継計画を立ち上げられなかったから」という言葉で、継続性の欠如と総括するのは、大変興味深いことだった。 その後、井上氏の言葉を頼りに、YS-11について調べていくと、基本、井上氏の言葉通りであることが見えてきた。以下、まとめていこう。 ●日本のロケット開発は二頭立て まずロケット。日本のロケットの研究開発は、1955年に東京大学生産技術研究所の糸川英夫教授が、全長23cmの「ペンシル」ロケットの発射実験を行ったところから始まった。それ以前から兵器としてのロケット推進の研究は旧軍が行っていた。日本油脂(現日油)という会社に軍の「噴推砲」向けの推進剤製造設備が残っていたので、そこで作れる推進剤がペンシルの推進剤として使われた。 この「手持ちの材料で、小さく始める」というのが、その後のロケット研究の発展に大きな意味を持った。小さく始めて何回も実験を重ね、慣れてきたら大きくして、何代にもわたってロケットの開発を続けていく。 何回もロケットの開発を繰り返すことで、ロケットという道具をよく理解する人材が育成されていくことになった。なにしろ大学は、人材育成機関だ。そこでロケットを研究開発するのだから、若くてイキがよく、しかも実際にロケットを造り、打ち上げるという経験を積んだ人材が育ち、関連メーカーに就職していくことになった。 1960年代に入ると科技庁がロケット開発に乗り出してくる。糸川ロケットは文部省(現文部科学省)の管轄なので、ここで「国としてのロケット開発は科技庁管轄か、それとも文部省か」でかなりもめたのだが、結局「研究は文部省、実利用向け技術開発は科技庁」ということで、1969年に技術開発を行う特殊法人の宇宙開発事業団(NASDA)が設立される。その後2003年に統合されて宇宙航空研究開発機構(JAXA)が設立されるまで、30年以上、二頭立て体制が続くことになった。 これが結果的には、日本のロケット開発にとってはとてもいい影響を与えた。東大系のロケットの現場でまさにたたき上げの教育を受けた人材が、より予算の大きな科技庁系のロケット開発の現場に入っていく、という人材の流れができたからだ。 しかも東大系も科技庁系もどんどん新しいロケットを開発した。なぜなら諸外国のロケットに比べて全然性能が足りなくて、次々に新ロケットを開発してキャッチアップしなければならなかったからだ。東大系だと、まず「ペンシル」、次が「ベビー」、ここからギリシャ文字名称になって「カッパ」、「ラムダ」、そして「ミュー」。ここまでわずか15年ほどで、5機種。間の改良も含めるともっとたくさんの機種を開発した。 文部省・科技庁の二頭立て体制が決まった時点では「東大系はミューロケットでおしまい」ということになったのだが、実際には「ミューロケットの改良型」という名目で、新規開発に近いが名前だけは「ミュー」というロケットを1970年代から80年代にかけてほぼ5年に1機種開発した。そしてついには全くの新規開発の「M-V」(ミューファイブ)というロケットを1997年にデビューさせてしまうまでになったのである。