旅客機を造れない日本がロケットは造れるわけ
経済産業省が3月27日に、大臣諮問機関の産業構造審議会で、航空機産業戦略を公表した。開発遅延を繰り返して最終的に開発中止になった旅客機「三菱スペースジェット(MSJ、旧MRJ)」の失敗を受けて、今後10年で官民合わせて4兆円の投資を行い、2035年以降に次世代国産旅客機の事業化を官民連携で目指すとした。 こういうニュースが流れると、私のところに質問が飛んでくることがある。「なんで日本は旅客機を造れないんですか。ロケットは飛ばせるのに何が違うんでしょうか」 一番単純な答えは、「ロケットは造り続けたから。旅客機は途中でやめちゃったから」というものだ。が、これではその意味が理解できない人も多いだろう。 自分はある程度、この件について説明できるぐらいは、取材を重ねてきている。 まず、一人の航空宇宙関係者の話から始めよう。 井上赳夫(1914~2003)という方がおられた。 2000年代初頭、日本の宇宙開発が始まった時期のことをせっせと取材していたことがある。東京大学生産技術研究所で糸川英夫教授がペンシルロケットから始めた日本のロケット研究は、さまざまな記録が残っていて比較的世間でも知られている。が、1960年代に入ってから科学技術庁(現文部科学省)で始まったロケットの研究開発は、それほど知られてはいない。とはいえ、そこには当然キーパーソンがいて、実際の立ち上げをやった人物がいるはずだ。 当時はまだ健在だった初期の科技庁宇宙開発関係者に話を聞いていくと、「それはジェットに聞くといいよ」「そりゃジェットさんさ、ジェットさんとこに行ってきなさい」みたいな話があちこちから出てきた。 ジェット――何者だ? そう、井上赳夫氏は、現役時代に「ジェット」というあだ名で呼ばれていたのだった。戦前から戦中にかけて、海軍で魚雷やロケットの推進機構を研究していた経験があり、なにかというとジェットエンジンやロケットエンジンの話をしていたからだという。 ●ジェットさんの大蔵省攻略作戦 井上氏は1960年代初頭、運輸省(現国土交通省)から科学技術庁へ出向し、科技庁のロケット予算を初めて大蔵省に認めさせた人物だった。 予算を認めさせるにあたって、巨大な実物大のロケット図面を作製し、それを大蔵省でばさーっと広げてプレゼンテーションし、大蔵の主計官を説得した。もちろん今のような直径5.2mの「H3」ロケットではない。それでも最初の科技庁ロケット「LS-A」は1段目が直径35cm、全長約7.5mだったから、差し渡し10m近い図面を用意したのだろう。当時の関係者によると「地下鉄の霞ケ関駅あたりを歩いていると、向こうから実物大ロケットの図面を入れたでっかい筒持った井上ジェットがやってくるんだよ。ありゃあ見ものだったね」――。どうやらこの「ジェットさん」が、科技庁ロケット開発のキーパーソンだったらしい。 というわけで、私は井上氏が亡くなる1年ほど前に、日本のロケット事始めでインタビューする機会を得た。 初期の科技庁の話は面白かった。井上氏曰く「実物大の図面というのは作戦ですよ。大蔵の科技担当主計官の前で、でっかい図面を広げると、『お、なんだなんだ』と周囲の主計官たちが寄ってくる。そっちが狙いです。担当主計官は、予算を通せば手柄になるから、むしろこっちの味方でね。だから彼を説得するよりも、周囲の主計官たちに話を通すというのが重要なわけ。図面を広げて、集まってきたメンツにロケットとはかくかくしかじかと説明して、話を通しやすくするわけですな」――。 この人、ものすごく頭がいいぞ、と思った。 その井上氏の話が、突然、戦後初の日本産旅客機YS-11に飛んだ。 「あれはね、ボクのアイデアなんだよ」 「えっ、通産の赤澤さんが言い出した計画じゃなかったんですか」 通説では、1957年に当時の赤澤璋一・通商産業省(現経済産業省)航空機課長の発案で、財団法人輸送機設計研究協会が設立され、旅客機の検討を開始したのが、YS-11開発計画の始まりとされている。 が、井上氏の話だとその前があった。