“日蓮”と称された炭坑王、森鴎外の文章に奮起したのか 麻生太吉(上)
明治から昭和にかけて、九州・筑豊の石炭産業をリードした麻生太吉は、裕福な家庭に生まれ育ち、貝島太助や安川敬一郎のように、貧乏から成金へ劇的な大変貌を遂げたわけではありません。金持ちではあるものの、粘り強く、不正が許せない性格で、みずからつるはしを振るい炭脈を掘り当てるなどして、周囲の尊敬を集めてきました。第92代内閣総理大臣で現財務大臣・麻生太郎の曾祖父としても知られている麻生太吉の炭鉱実業家のスタート期を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
森鴎外の書いた「石炭景気に沸く北九州」に奮起
石炭がエネルギー源の筆頭であった明治、大正、昭和初期にかけて麻生太吉、安川敬一郎、貝島太助は「筑豊のご三家」と呼ばれた。 森鴎外が石炭景気に沸く北九州の様子を「吾をして九州の富人たらしめば」の中で書いている。鴎外が小倉に左遷されたのは1899(明治32)年のことだが、人力車に乗ろうとしても「先約がある」とか、「病気で動けない」とか言って乗車拒否に遭う。車夫たちは炭坑関係者が何倍もの高い運賃で乗ってくれるので、役人風情など相手にしたがらない。雨の中、革靴で田んぼのあぜ道を2里(8キロ)も歩かされる羽目に陥る。この文章が麻生を奮起させたともいわれる。 『財界物故傑物伝』(実業之世界社編)は麻生の横顔をこう描いている。 「麻生は見るからに躯幹雄大、異相で、人呼んで日蓮上人と称したが、その資質もたぐいなく強剛で、いったん思い立ったことは是が非でも貫かずんば止まざる意力を蔵していた。明治以来の財界の偉傑のうち、彼ほどネバリ気と反発力を持った人物は少ない。また彼は天成の善人、金もうけは上手でも不正直ではないだけに短気一徹で怒りを発し、後でみずから悔いるという珍談もあったが、後年は実に円満な長者の風を成した」 また『大正人名辞典』は、浮沈の激しい炭坑経営の難しさに耐えて大成した麻生についてこう称賛している。 「およそ炭坑の事業たるや、ひとたび成功すれば、富豪実業家として屈指せらるるに至る。その盛衰、消長また大にしてこれの経営は尋常一様の手腕、材器の卓絶せる者に非ずんば、炭坑経営を全うすること困難なり」 筑豊ご三家は日清、日露の両戦役、欧州大戦と戦乱のたびに巨利を博し、石炭成り金と称された。 貝島と安川が徒手空拳から身を起こしたのに対し、麻生家はもともと裕福だっただけに波乱万丈の生涯とはいえないにしても、遠賀川育ちの闘魂ではだれにも引けを取らなかった。景気の谷間の反動期は炭価が暴落し、苦渋を味わうが、そのつど二枚腰で盛り返し底力をみせつけた。 麻生家は代々筑豊炭田のど真ん中で大庄屋をやるほどの資産家であった。先代賀郎は剛毅な気性と知略に長けていて理財の才覚も豊かであった。太吉は午前中役場に出て、午後は炭坑で働いた。