“日蓮”と称された炭坑王、森鴎外の文章に奮起したのか 麻生太吉(上)
瓜生長右衛門は幼少時からのライバル
太吉は少年期には知恵付きの遅いほうであったが、長ずるに従い、目に見えてたくましくなっていった。1880(明治13)年に父と協力して綱分坑を開発した。この時組合組織にして開発資金を集めて成功した。1884(同17)年には鯰田坑に取り掛かった。この時、父賀郎は「太吉、貴様に長右衛門を付けてやる。相談してやってみろ」と命じた。 瓜生長右衛門は幼少時から麻生家に住み、共に寺子屋に通い、とんぼを追いかけた仲だが、このころは互いにライバル心を燃やす間柄だった。賀郎はそこに目を付け、長右衛門と競わせようとした。太吉と長右衛門はこれから半世紀にわたり形離不稚の関係を保つことになる。2人は毎日毎日、つるはしをふるった。 「勇将のもとに弱卒なしのたとえにもれず何十人かの抗夫たちも競って精を出した。『おれもつるはしから鍛えてきぞ』との誇りと信頼とを胸底に蔵したことは、以降50年間の太吉の生涯にとって力強い一つの礎石であったろう。後年折に触れて発揮せられた、難局に当たっても微動だにせざる確乎(かっこ)不抜の豪邁な態度は、はからずも抗夫生活の日の賜であった」(『麻生太吉伝』) 2年間汗と脂を流し堀り続けて、1886(明治19)年秋、やっと炭脈を掘り当てた。石炭業界ではこれを「着炭」と呼んだ。新坑の開発に際し、「着炭」こそは、敵陣の本の丸を陥れたに等しい快挙であった。つるはしをふるっての肉弾戦に勝利し、嵐のような万歳の声が坑内外にとどろく。だが、この時、太吉は奇妙なことを口走った。「しばらくこの山を休んで、忠隈坑を見に行きたい」 せっかく着炭してこれから本格的に堀り出そうと腕をなでている長右衛門はじめ抗夫たちのけげんそうな顔を尻目に太吉は「明日から忠隈坑に移るんだ。皆で」。皆は意味不明のまま、鯰田から忠隈に移った。太吉の狙いが分かったのはその5年後のことだった。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ■麻生太吉(1857-1933)の横顔 1857(安政4)年筑前区嘉麻郡立岩村(福岡県飯塚市)で生まれ、1881(明治14)年父賀郎とともに嘉麻社を組織、1888(同21)年炭坑不況で苦心惨胆、1889(同22)年鯰田坑を三菱に売却、1991(同24)年忠隈坑の経営に着手、1894(同27)年忠隈坑を住友に売却、1896(同29)年嘉穂銀行頭取、1899(同32)年衆議院議員に当選、1907(同40)年藤棚坑、本洞坑を三井に売却、1911(同44)年筑豊石炭鉱業組合総長、1912(大正初)年にかけ次々と鉱区を開拓、1920(同9)年麻生商店(資本金1000万円)を設立、1921(同10)年全国石炭鉱業連合会を結成、初代会長に就任。