皇室と共に歩んだ“博愛精神”の「日本赤十字社」その看護婦は「赤紙」で召集され太平洋戦争で1120人が“戦死”した
“水増し”された従軍看護婦
戦線が拡大するにつれて、兵士だけでなく看護婦も足りなくなった。そのため、次々と看護婦の“水増し”が実施された。1941年に「内務省令看護規則」が改定され、看護婦資格が得られる年齢を18歳から17歳へ引き下げた。さらに1944年には、16歳になった。 日赤看護婦は最初、修業期間4~5年の高等女学校を卒業してから、日赤看護婦養成所で3年間の教育を受けた者だった。それを1940年には、尋常高等小学校を卒業し養成所で2年間の教育を受けた者を「乙種救護看護婦」とし、従来の看護婦を「甲種救護看護婦」と呼ぶようにした。 さらに1942年には、日赤以外の看護婦養成所を卒業して民間病院に勤務している看護婦や退職看護婦を対象に、日赤で3カ月間だけ教育して「臨時救護看護婦」としたのだ。 それだけではなく、高等女学校の在校生・卒業生までもが看護に駆り出された。沖縄戦では、いくつもの高等女学校などの「学徒隊」で多くの死者が出た。そのうちの「ひめゆり学徒隊」は、「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第1高等女学校」の生徒222人・教師18人で構成され、「沖縄陸軍病院」で勤務。集団自決をせざるを得なかった10人を含む、生徒・教師136人が死亡している。
“戦死”した1120人の日赤看護婦
日本から戦場へ送られた看護婦は、日赤と陸軍・海軍からだった。日赤と陸軍の看護婦が最初に派遣されたのは、1937年に「盧溝橋事件」が起きた中国だった。 それ以降は、フランス領インドシナ・南鳥島・南洋諸島および新南群島・タイ・ビルマ・英国領マレー半島・オランダ領東インド諸島・英国領ボルネオ・ニューギニア島・ビスマルク諸島・オーストラリア・フィリピン諸島・ハワイ諸島・太平洋およびインド洋上の島嶼・千島列島・小笠原諸島および硫黄列島・インド・南西諸島・樺太・北緯38度線以北の朝鮮。つまり、日本が覇権を求めて軍隊を送り込んだアジア太平洋の国と地域のすべてである。 1937年から1945年のアジア太平洋戦争の敗戦までに動員された日赤救護班は960班で、延べ3万3156人。この中には、2~3回と召集された人たちがいる。 このうち戦場へ派遣されたのは307班、病院船91班、残りが日本国内での勤務だった。送られた戦場は中国が187班と最も多く、それと別に中国東北地方へ64班、ビルマ・タイ・南洋群島の「南方」へは56班だった。そして殉職した看護婦は、1120人にもなった。 これ以外に陸軍・海軍看護婦や沖縄の学徒隊など、救護活動の中で死亡した多くの人がいる。10代と20代の若い女性たちが、兵士と同じように戦場で次々と亡くなったのである。 ビルマへ送られた和歌山からの「第490救護班」は、23人中の15人が死亡した。看護婦長は、「天皇陛下万歳」と叫んで自決。それは、1941年1月に東條英機陸軍大臣の名で公布された「生きて虜囚の辱めを受けず」とする「戦陣訓」があったからだ。 ジュネーブ条約は「戦時傷病者は敵味方の区別なく看護されること」としている。これは、赤十字運動の根幹である。そして日赤は「人道・博愛」を掲げてきた。だがそうした崇高な理念とは異なり、実際には日赤救護班による敵兵への看護は例外的に行なわれただけだった。 中編『死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社」従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」』に続く (撮影日記載の写真は筆者撮影)
伊藤 孝司(フォトジャーナリスト)