皇室と共に歩んだ“博愛精神”の「日本赤十字社」その看護婦は「赤紙」で召集され太平洋戦争で1120人が“戦死”した
「赤紙」で召集された看護婦たち
1901年に制定された「日本赤十字社条例」には、「日本の陸軍大臣・海軍大臣の指定する範囲内において陸海軍の戦時衛生勤務を幇助すること」と明記された。つまり日赤は軍の監督下に置かれ、戦争時には軍の衛生部隊の医療・看護活動を補助すると位置付けられたのだ。 「日本では日露戦争以降、日赤と軍の相互主義はなし崩しとなり、徐々に軍の支配が強くなっていく。日赤看護婦の身分は、陸軍においては軍属とされた。(中略)軍の指揮下に入る際には宣誓をして軍属となり、命令違反があったときには陸軍刑法および懲罰令の適用を受けることになった。(中略)軍の日赤に対する統制が強まるなか、やがて救護員にとって軍の命令は絶対となった」(『戦争のある場所には看護師がいる』「戦時下に日本のナースたちが体験したこと」川原由佳里) 日本が武力を背景にアジア諸国へ権益を求めて進出する中で、日赤は日本軍の海外派兵と戦争に備えて病院建設と看護婦の養成を進めた。「日赤看護婦養成所」の開設目的には「戦時ニ於テ患者ヲ看護セシムル用ニ供ス」とされていた。 「私が日本赤十社救護看護婦養成所に行ったのは、それが女が行ける陸海軍に最も近い位置、というより陸海軍と一体であったからである」(『慈愛による差別』北村小夜)というように、「お国のために尽くしたい」と思った女性は日赤の看護婦になって、戦場で兵士の看護をするという選択肢しかなかったのだ。 “軍国少女”でなくても、日赤の「救護看護婦養成規則」により日赤看護婦養成所を卒業した看護婦は、2年間の病院勤務に服することと、卒業後20年間(次第に短縮)は「国家有事」には召集に応じる義務があった。それは既婚者や、子どもが何人いても対象となった。 召集されると「日赤戦時救護班」に組み込まれる。それは医師1人、看護婦長1人・看護婦20人と、書記・使丁1人ずつの合計24人で1班が構成されていた。軍隊内での待遇は、書記と看護婦長は下士官、看護婦は兵卒と同じだった。そしてこの救護班は、陸軍・海軍の部隊に組み入れられた。 「赤十字の救護班に対してまで、軍は敵を殺すことを想定した竹やり訓練を行い、遺髪や爪を残すよう命じ、天皇陛下万歳を三唱するという死に際の作法を指導、そして自決のための手榴弾の訓練や青酸カリを配布したのです」(『戦争と看護師』「赤十字条約はなぜ守られなかったのか」川原由佳里) 日赤救護班員は戦闘に参加しない「軍属」だった。しかし軍事訓練では、竹やりだけでなく殺傷能力のある長刀や実弾射撃まで受けた看護婦たちもいた。 日赤看護婦の召集は、兵士と同じ「赤紙」によって行なわれた。戦況悪化の中で若い男性が片っ端から戦場へ向かうという状況の中で、女性が従軍看護婦として出征することは“家の名誉”だった。その看護婦の自宅玄関には、「出征兵士の家」と書かれた木札が掲げられた。 居住地を出発する際には兵士の出征と同じように、看護婦も万歳三唱で送られた。そして死を覚悟したことの証の“水さかずき”をし、戦場へ向かったのだ。「女の兵隊さん」と従軍看護婦たちが呼ばれたゆえんである。