「予備知識ゼロ」の人こそ最短距離で理解できる「はじめてのフッサール」…そもそも「ヨーロッパ哲学最大の難問」である「認識論」とは何なのか
ヨーロッパ哲学の最大の難問=認識論の謎を解明した20世紀哲学の最高峰といわれるフッサール現象学は、じつは、その根本から無理解と大きな誤解にさらされたまま現在に至っている。 【もっと読む】現象学解釈の「挫折」…フッサール現象学が今も誤解されている理由 現象学の根本動機は、ひとことでいうと「認識問題の解明」だ。 現象学を理解するための不可欠な第一歩として、まず、この根本動機についてわかりやすく説明しよう。「認識問題」とはいったい何なのか? (本記事は、竹田青嗣+荒井訓『超解読!はじめてのフッサール『イデーン』』(12月26日)から抜粋・編集したものです。)
「認識問題」とは何なのか
まずヨーロッパの「認識問題」とそれが大きな難問であることの理由からはじめよう。 哲学の認識問題は、ギリシャ哲学で、哲学者のさまざまな世界理説が登場し対立を示したところから始まる。普遍認識はそもそも不可能であるという懐疑論(=相対主義)は、ソフィストたちによって主張されたが、その代表者はプロタゴラスやゴルギアスである。とくにゴルギアスは三つの興味深い論証をおいた。これを私はゴルギアス・テーゼと呼ぶ。 1.存在はない。なぜなら誰も存在を証明できないから。 2.仮に存在があるとしても、誰も認識できない。 3.仮に存在の認識があるとしても、誰もそれを正しく言葉にできない。 この三つの論証でゴルギアスは、普遍認識の不可能性に三重のカギを掛けたことになる。それを、つぎの分かりやすい構図で示すことができる。 「存在≠認識≠言語」 この構図が、以後、哲学を普遍認識【*】の学と見なすヨーロッパの優れた哲学者を悩ましつづけた、懐疑論─相対主義の「難問」の根源となった。普遍認識の可能性を否定する懐疑論─相対主義は哲学史に何度も現われるのだが、その論拠を追いつめればつねにこの「存在≠認識≠言語」の構図に帰せられるからだ。 近代哲学でそれは、「主観─客観の不一致」という形をとり、現代哲学では「認識と言語の不一致」という形をとっている。 【*ここで、「客観認識」は主として事実的なものの認識を指し、「普遍認識」は関係的、本質的なものの認識を指すものとして大まかに区別しておく。「普遍認識」で両者を含める場合もある。】