「予備知識ゼロ」の人こそ最短距離で理解できる「はじめてのフッサール」…そもそも「ヨーロッパ哲学最大の難問」である「認識論」とは何なのか
自然科学の客観認識も、じつは…
自然科学の領域ではこの構図は合理的な見方であるといったが、認識の本質構造として厳密に考えると、自然科学の客観認識もじつは人間の認識が「客観」と一致することで成立するわけではない。 自然科学の認識は、自然法則についての仮説があり、この仮説がさまざまな実証データによって繰り返し検証され、その結果、可能な他の仮説が退けられて、科学者たちの共通確信が確立されることによって成立する。しかしこの「客観認識」はじつはどこまでも暫定的な客観認識であって、決して最終の結論にはいたらない。 このことはあれほど客観的と見なされたニュートン力学が、計測技術の進化による新しいデータによってアインシュタインの相対性理論に置き換えられたことを見ても分かる。科学の「客観認識」はどこまでもデータに依存し、データは技術の進歩に依存し、絶対的な終着点をもたないからだ。それでも自然領域では、なんらかの実在的事実が「想定」されており、それが「客観的な事実」の正しい認識という構図を合理的なものとしているのである。 これに対して、人文領域の認識では、そもそも客観的事実なるものは想定されない。人間の世界は、つねに変化する関係の網の目であり、かつこの関係の網の目は、事実的な因果関係の網の目ではなく、人間関係が織りなす「意味と価値」の網の目である。それゆえこの領域の認識は、つねに「よい社会とは」、「よい政治とは」、「よい教育とは」といった問いを含む。 問題は「事実」の認識ではなく「本質」の認識である。つまりここでは「本質の認識」についての普遍的な方法が求められるのである。 それをフッサールは、実証的方法をこととする「事実学」と区別して「本質学」と名づける。 このように見てくれば、フッサール現象学を、真理認識をめがける厳密な認識の基礎づけと見なしたり、「存在論哲学」の予備的哲学と見なす従来の通念的な現象学理解が、いかに的を外したものであるかが理解されるはずだ。
竹田 青嗣、荒井 訓