「私は絶対に歌手になりたいのです」 断固拒否の父親の心を変えた松田聖子のブレない思い
福岡県に住む16歳の蒲池法子、のちの松田聖子がオーディションに送ったテープから才能を感じ、芸能界デビューを進めようとした音楽プロデューサーの若松宗雄さんの前に立ちはだかったのは、彼女の父親だった。何度もアプローチして、ようやく直接話を聞いてもらうことになったのだが――。後編では、それでも首を縦に振らなかった父が、デビューを許すまでのドラマを見てみよう。 【写真を見る】「還暦に見えない女性有名人1位」 “老けない”松田聖子
(若松宗雄著『松田聖子の誕生』をもとに再構成。前中後編記事の後編。前中編では奇跡の歌声に出会った興奮と、家族の猛反対とが紹介されています) ***
父親と対面したが……
ホテルに到着すると、聖子の父親がフロントの前に立っているのがすぐにわかった。公務員らしくきちんとした装いのスーツで、もちろんこちらもスーツ。父親はすらりとした背格好で髪は後ろにきっちりと撫でつけ、誠実かつ堅実な人柄がすぐに伝わってきた。そうか、聖子は、母親の優しい顔立ちと父親の品格をバランスよく受け継いだのだな。重苦しい空気の中でもどこか冷静にそんなことを思いながら、深々と初対面の挨拶を交わしたのを覚えている。それから父親の仕事の話を聞きながら、私も音楽業界における自分の夢を熱く語った。同時に営業時代からずっと誠実に仕事をしてきた話なども交えて、自分が浮わついた人間ではないことを知ってもらおうと努めた。しかし父親は終始厳しい表情のままだ。珍しく私も緊張し、やたらと喉が渇いたのを記憶している。 思えば西鉄グランドホテルは、当時九州でも一番格式のあるホテルだった。1969年築で帝国ホテルを意識して作ったとも言われる趣のある建築は、父親としてもそれなりに考えての会合場所だったのかもしれない。高い天井と豪華なシャンデリア。声が空中へと吸い込まれ、ともすれば自分を卑小に感じてしまいそうなロビーのソファー席で、私は心を込めて真剣に話し続けた。 なんとかここで許可をもらわねば、と熱がこもる。もちろんそれぞれの人柄を知れば少なからず会話は弾む。短い時間ではあったが、少しずつ父親が心を開き、節々で私の話に頷いてくれるようになっていった気もした。しかし、私が「お嬢さんには素晴らしい才能がある。ぜひデビューさせたいと考えています」と何度言おうとも、一向に「わかりました」という言葉がその口から発せられることはなかった。 2時間近く話しただろうか。ふと気がつくと時刻は夕方になっていた。すると心なしか笑顔になった父親から、「若松さん、飯でも食うか?」と夕食の誘いがあった。延々と話し続けて声を嗄らし始めた私の様子を見て取ったのだろうか。あるいは腹の虫が鳴り響く音が聞こえていたのかもしれない。近所のレストランに場所を移すと、少しだけ砕けた雰囲気の中、私は夕食をご馳走になった。 私は思った。もしかしたら思いが通じたのではないだろうか。少なくとも門前払いではなく、真剣に対峙してくださったようにも感じた。ただし、「わざわざ東京から来てくれてありがとう」という労いはあっても、「わかった」という一言は最後まで聞けずじまい。それでも私は少しの可能性を信じて帰路に就いた。数年後に聞いたところによれば、聖子の父親はこのとき「絶対にわかったと言ってはいかん」と心の中で抗(あらが)っていたという。 まずは私という人間を知ってもらうことはできた。しかし、まだまだ道のりは遠かったのだ。