「私は絶対に歌手になりたいのです」 断固拒否の父親の心を変えた松田聖子のブレない思い
女性スタッフに頼んで電話
彼女から手紙をもらって、私はいてもたってもおられず電話をかけたい衝動に駆られていた。しかし父親からは直接話してはいけないと言われている。滑稽に思えるかもしれないが、そこで私は、当時部署にいたデスクの女性スタッフに頼み、私のデスクから聖子に電話をかけてもらうことにした。しかも、もし両親が出たら、その時は学校の友達だと言ってくれと頼んで……。こちらも必死だったのだ。 いまも昔も変わらないことはただ一つ。大切な話はきちんと自分の口から言葉にして伝えるということ。それだけだった。 かくしてCBS・ソニー市ヶ谷ビルの片隅にて、私は、電話のすぐそばで固唾を呑んで待っていた。心なしか受話器を握るスタッフも緊張気味である。そして数回ベルの音がしたのちに誰かが受話器の向こうで出たのがわかった。 「本人です、ご本人ですよ!!」 すぐさま電話を代わると、私は少しうわずった声で「元気にしてましたか?」と言葉をかけた。 後日そのときの礼を手紙でもらっている。この前は折り返し電話をいただいて大変感激しましたといった言葉が丁寧に書かれていた。続けて、これからも誰にも負けない強い気持ちで頑張りますといった文面で、改めて歌手になる決意が綴られていた。消印は1978年12月16日。 このときも再び私は折り返し電話をかけている。そして「もう一度、東京に来てみませんか?」と提案していた。手紙だけではわからないこともある。久しぶりに顔を合わせて話した方が解決の道筋が見えるかもしれない。すると、今度の冬休みに東京の親戚の家に遊びに来るというではないか。私は聖子と会って話す約束をした。 大切な話は自分の口からきちんと言葉にして伝えるということ。それだけは、今も昔も変わらないことだったからだ。
モノレールで語った決意
年の瀬近い街にジングルベルが流れる頃、聖子と私は、麹町の日本テレビの近くにあった喫茶店で会っている。 聖子によると、東京の親戚宅に遊びに行くことについては、父親も賛成してくれたという。もしかしたら父親は、聖子がようやく歌のことを諦めて志望大学のキャンパス見学にでも行っていると思っていたのかもしれない。しかし実際に訪れていたのはCBS・ソニーのある市ヶ谷からもほど近い、小さな喫茶店だった。 しばらく話すと、聖子はせきを切ったように切々とデビューへの熱い思いを伝えてきた。私の決意は変わりません。どうしても歌手になりたいのです。 「法子ちゃん、もう一度心を込めてお父さんを説得するしかないよ」 彼女は、強い意志をたたえた瞳で真っ直ぐに私を見て頷いていた。 このとき私は聖子を、浜松町からモノレールで羽田まで見送っている。冬の夕陽が長い影とともに車内を赤く染めていた。湾岸方向に目をやると、次第に海が見えてくる。私と聖子は夕焼けに染まる東京湾やビル群を眺めながら、モノレールの座席に座っていた。すると夕映えの美しさを感じていたせいか、急に私の口からいつになくセンチメンタルな言葉がこぼれた。 「君はすごい才能を持っている。それは間違いない。だから僕は君の才能を信じて全てを賭けるつもりだ。その代わり法子ちゃんも覚悟を持って頑張ってほしい。しかしこの世界は、努力したから売れるものでもないし、どんなに曲が良くても歌がうまくても、必ずヒットが出るわけじゃない。運が大きく左右する。先が見えない日もあると思う。でも3年間はとにかく一生懸命頑張ってみよう。君ならきっと何かが掴めるはずだ。もしもそれでも夢が叶わなかったら、そのときは福岡に帰る日も来るかもしれない。それでも夢を信じて一緒に頑張ろう」 真剣な眼差しで聞いていた聖子は、小さく、でもしっかりとした意志を持って「はい」と頷いていた。まずは親の説得が先だが、既に私は彼女がスターになった日々のことを頭に描いていた。 プロデューサーとしてほとんど実績もない私に、不安がなかったと言えば嘘になる。けれど実績がないからこそ、真っ直ぐな気持ちで自分の直感を信じ情熱を注いだ。愚直だが、聖子の強い気持ちに応えるように、私も自分の人生を賭けるとそのとき決意を固めていたのだ。 冬の夕陽は羽田へと向かうモノレールの車内に熱いゆらめきを作っていた。