「私は絶対に歌手になりたいのです」 断固拒否の父親の心を変えた松田聖子のブレない思い
手紙に書かれた決意
それからすぐに1979年の新春を迎え、私は激動の予感をひしひしと感じていた。同時に英気をしっかり養い、その年の正月を過ごしたのを覚えている。 聖子からは新年の挨拶の意味も込めて3通目の手紙が届いていた。消印は1月6日。暮れに東京で会ったときのお礼や、歌手になったときのことも想像しながら、果たしてどれくらい頑張れるだろうかといった揺れ動く気持ちも綴られていた。東京へ来てみて、より現実のものとして歌手になる夢を捉え始めていたのだろう。 しかし最後には、これからも強い気持ちで頑張ります、と改めて決意がしっかりと書かれていた。 考えてみれば、手紙とは実にいいものである。自らのペンで気持ちを一文字一文字確認しながらしたためていく。その作業によって自分の思いと熱意がさらに固まっていくのだ。メールの気軽な楽しさもあるが、手紙は廃れてはならない文化だと思う。もしも夢を実現したいなら、手紙にして誰かに願いごとを送ってみるのもいいかもしれない。もちろん自分自身に送ったっていい。自筆の言葉が持つ力が時空を超えて倍増され、運を手繰り寄せていくからだ。聖子の手紙からは、そんな力さえ感じられた。
「娘がどうにもならないんだ」
すると仕事始めから間もない1月中旬頃、突如制作6部(注・若松さんの所属部署)へ福岡から電話がかかってきた。電話の主は聖子の父親であった。 「若松さん、すまない。ちょっと急ぎで久留米まで来てもらえないだろうか。娘がどうにもならないんだ」 電話越しの父親はいつになく動揺していた。いったいどうしたことか!? 暮れに聖子に会ってから何か蒲池家に起きたのだろうか。私はあわてて間に合うフライトで福岡へ飛んだ。久留米は当時空港から西鉄福岡駅へタクシーで移動し、急行で1時間ほど。夕方には駅前に到着していた。 会合場所に指定されたのは駅前のレストランだった。店のドアを開けて2階の個室へ行くと、聖子と両親が神妙な面持ちで待っていた。一瞬、まだ許しが出るわけではないのだろうかと怯んだものの、父親から告げられたのは、愛情深い親ならではの熱い言葉だった。 「娘が言うことをどうしても聞かない。家出をするとまで言っている。こうなると親としてはもう彼女の夢を叶えてやるしかない。若松さん、あなたに私の娘を預けます。他でもないあなたに預けますので、責任を持って預かってください。私はあなたを信じます」 心の奥底を覗き込むように真っ直ぐに私の目を見て話す父親の言葉に、私は身が引き締まる思いがした。ついに雪解けの日が来たのだ。聖子の想いにほだされて、父親も翻意するしか道がなかったのだという。 世の中ではあちこちで、私が聖子の父親を説得したという話になっている。確かにそれも真実だ。しかし同時に、本当の意味で父親を説得し強い気持ちで許しを勝ち得たのは聖子自身だったのだ。長かった。聖子の声を初めてテープで聴いてから既に半年が過ぎていた。西鉄グランドホテルで父親と会ったことも無駄ではなかった。あのときに誠意を持って長時間話したことで、父親は少なからず私を信頼してくれていたのである。ようやく許しが出て涙ぐむ聖子とそれを見守る母親。 父親の頭髪には以前に会ったときよりも明らかに白く光るものが増えていた。そこで私は初めてこの一件が随分と父親に心労をかけていたことに気づいた。そして、一人の歌手の卵の人生を預かる責任を改めてしっかりと受け止め、同時に、必ず聖子をスターに育てるという決意を新たにせずにはいられなかった。
*** 1980年4月1日、松田聖子は「裸足の季節」でデビューを果たす。すぐにトップアイドルとなった彼女は40年以上たって、中央大学法学部通信教育課程を卒業した。進学を強く望んでいた父のことは脳裏に浮かんだだろうか。 ※『松田聖子の誕生』から一部抜粋、再構成。 若松宗雄(わかまつ・むねお) 1940(昭和15)年生まれ。音楽プロデューサー。CBS・ソニーに在籍、一本のカセットテープから松田聖子を発掘した。80年代後期までのシングルとアルバムを全てプロデュース。ソニー・ミュージックアーティスツ社長、会長を経てエスプロレコーズ代表。『松田聖子の誕生』が初の著書。 デイリー新潮編集部
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