「私は絶対に歌手になりたいのです」 断固拒否の父親の心を変えた松田聖子のブレない思い
砕け散った期待
次の日私は、昨日のお礼も兼ねてすぐに蒲池家に電話をかけている。だが、返ってきた言葉はNOであった。しかも昨夜少しだけ近づけたと思った距離は再び大きくひき離され、父親からは直々に、きっちり釘を刺す言葉までいただいてしまったのだ。 「若松さん、どうか今後は娘にも妻にも直接電話はしないでくれ。私が家族の責任者だ。何かあったら私を通して、勝手に娘や家内に話さないでほしい」 そうなると私も「わかりました」と返答するしかない。父親はその日、聖子にも厳格な口調で「もう、このことはきっぱり忘れなさい」と話していたという。そう、わずかな期待は砕け散り、いきなり聖子との連絡の道が断たれてしまったのである。 やはり無理か。なす術なしとはまさにこのこと。さすがの私もそれなりに落ち込んだ。しかし、こんなときは考えるだけ無駄だ。仕方がない。一旦全てを忘れて、まずはしっかり眠ること。考えても何も変わらないときは休むのが一番なのだ。 すると、流れに身を任せたのが良かったのか、ほどなくして、まさに吉報とも呼ぶべき手紙が私の元へ届くのである。希望の糸はまだ繋がっていたのだ。
「私は絶対に歌手になりたいのです」
1978年秋。市ヶ谷のCBS・ソニー本社ビルからは、お堀端の並木の紅葉が見える季節になっていた。私は他の仕事に追われつつも福岡の少女・蒲池法子のことが頭から離れずにいた。そんなある日、彼女から一通の手紙が送られてきたのだ。 私の机の上にある手紙には「蒲池法子」という名前がくっきりと記され、1978年11月1日の消印が押されていた。可愛いらしい丸文字でしたためられていたが、しっかりした筆圧からは夢への揺るぎない気持ちが強く伝わってきた。そこには要約するとこんな感じのことが書かれていた。 私は絶対に歌手になりたいのです。父は反対していますが、私の気持ちをいつか必ず理解してくれるはずです。とにかくあらゆる努力をしますので、これからも私自身の気持ちは変わりません。私にもう一度チャンスをください。どうかよろしくお願いいたします。 その書面に私は改めて感激し、ホッとしていた。正直に言えば実はこのまま本当に連絡が取れなくなるのではないかと思っていたのだ。なんとかなると自分に言い聞かせつつも裏腹に時間だけは過ぎていく。そこへ届いた決意の封書。歌手になりたいという素直な気持ちが、改めて一文字一文字から熱く伝わってきた。 考えてみれば、聖子も気持ちの抑えようがなかったのかもしれない。福岡の営業所でレコード会社のプロデューサーである私に会ったこと。そこで色々な夢について語り、歌を歌ったこと。しかもその場ですぐに「あなたをデビューさせたい。私は責任者です」と熱い口調で言われたこと。その後一瞬ではあったが、東京で芸能事務所の方に挨拶をしたこと。全てが揺るぎない事実であり、16歳の少女には心の拠り所だったに違いない。しかも、父親にきっぱり忘れろと言われれば言われるほど、痛みが情熱に変わっていく。おそらく私が渡した名刺を大切に机の中にしまい、必死の思いでこの市ヶ谷の住所を書き記し、ポストへ投函したのだろう。 実はその後、彼女が歌手になるために上京してくるまでの間に、私は聖子から6通の手紙をもらっている。手紙には、読めばどの時期に何が起きていたか克明にわかるほど、その都度その都度の気持ちが熱くしたためられている。それだけでも松田聖子という人間の「想い」の強さと、真っ直ぐな人間性を理解していただけるはずだ。私はそれらをいまも持ち続けている。捨てられない、捨てられるはずがない。なぜならそこには松田聖子の原点とも言うべき情熱が綴られているからだ。 のちに、どんなに忙しいときも笑顔をたやさず、深夜のレコーディングでも弱音を吐かずに取り組んでいたあの強さは、全てこのときの手紙に込められていた。そう思うと手放すことなどできなかった。