「島を持っている人と一緒になりたい」が叶ってフィリピンの小さな島に移住。島でキルト産業を生み出し世界中に広げた女性とは
カオハガンキルトの始まり
1992年、カオハガン島へ移住した当初は、順子さんは島でのんびり暮らすつもりだった。しかし次第に島でも住民とキルトを始めてみたいと思うようになった。ただ最初は誰も関心を示してくれなかったのだ。 「大人たちは『そんな難しいのはできないよ』と言って、麻雀とおしゃべりをするばかりでした。最初に教えてほしいと言ってきたのは、隣のマクタン島から来ていたクララという女性だったんです」 順子さんはクララに日本で教えていたように丁寧にキルトの制作方法を教えた。しばらくしてクララがマクタン島に帰った後、完成したキルトが送られてきた。カオハガン島を離れても、まだキルト作りを続けていたことが嬉しくて、順子さんはクララの家を訪問した。 「クララの作ったキルトが家のあちこちにあり、生活の中で使われていたことに驚きました。その中の一枚をカオハガン島に持ち帰って、宿泊施設のある母屋の壁にかけてお客さんに販売してみたんです。それはお世辞にも綺麗とは言えないぶかぶかのキルティングだったので、結局誰も買ってくれなかったんですが。だけど、毎日見ていて私が好きになってしまい、買い上げてしまいました(笑)」 すると思ってもみないことが起こった。 「キルトを作るとお金になる」ということで、10人ほどの女性がキルトを作りたいと言い出したのだ。 「私は島民に基本からきっちり教えようと思い、紙、鉛筆、定規を用意しました。でも、小学校2年生以降の学習をしていなかった彼女たちには、それらを使って製図を描くことは難しかったんです」 島の大人たちが子どもの頃は、現地の小学校が2年生までしかなかった。3年生以降は他の島へ通わなければならなかったが、そこまでする島民は少なかったという。せっかくキルトに興味を持ってくれたものの、日本で教えてきた方法のままでは難しいことがわかった。そんなとき、クララの作ったキルトを眺めていた順子さんはあることに気がついた。 「クララが何か変わった方法で作っていると思ったんです。その方法を尋ねてみたら『定規や紙は面倒なので使わず、適当に布をカットし、ただ縫い合わせた』と言うのです」 クララには定規や鉛筆を使う方法を教えて上手く使っていたが、いつのまにか独自の方法を編み出していた。道具を何も使わずに作ったことを順子さんはとても驚いた。日本では考えたこともない。 順子さんはこのとき、日本で「ハーツ&ハンズ」の校長をしていたときに出会った「アフロアメリカン・キルト」のことを思い出した。このキルトを作る人たちは、ルールに縛られず、布と遊ぶ楽しさを大切にしているようだったという。不規則だが、踊っているような躍動感がある独特のキルトが作り出されていた。 このことを思い出した順子さんは、島民たちへも「適当にカットして作る」方法に切り替えたという。すると徐々に自分達の方法を見つけて取り組み始める姿があった。 「カオハガンのキルターたちを見ていると、柔軟な頭や心が感じられるんです。デザインを勉強したことはないけれど、自然に美しい構図を生み出していくんです」