「島を持っている人と一緒になりたい」が叶ってフィリピンの小さな島に移住。島でキルト産業を生み出し世界中に広げた女性とは
キルトとの出会い
「私は背が低くて、体も細く、静かな子どもでした。幼稚園のときはいじめられっ子で、いつも泣いていて。そんな私を母は引きずって連れて行ってましたね」 順子さんは、幼少期をこう語ってくれた。しかし小学校のとき、同じように小柄な体格にもかかわらず活発な子と出会い、その女の子に憧れて徐々に変わっていったという。 中学生のとき、友人がアメリカの『セブンティーン』という雑誌を定期購読していた。当時、輸入雑誌は珍しく、一緒に見せてもらっていた。そしてあるページに載っていたキルトを見たとき、目と心が奪われた。 「モデルさんが、キルトのかかったベッドの前でポーズをとっていたの。これが初めてキルトを知った瞬間でした。こんなきれいなものがあるんだと驚き、自分でも作りたいと思いました。キルトのベッドカバーを作れば、家にたまっていた残りの布を片づけられる、と大発見した気分でしたよ」 すぐにキルトを作るため、アメリカのパッチワークの本を買った。日本にはまだキルトの本はなかったのだ。キルト制作には小さな布が沢山必要だが、順子さんの家にはすでに十分な量があった。なぜなら自分の小柄な体型に合う市販の服がなく、下着から洋服まで手作りしたときの布が余っていたのだ。そしてそれらの処理に困っていた。キルトを知って以来その虜になり、さまざまな色や柄の布を合わせて、自分の好きな模様を夢中になって作った。
キルトが仕事に
幼少期から服飾に興味があった順子さんは、自分の服を作る方法もユニークだった。あらかじめ親指の先から小指の先までの距離、肘から手首までの距離などを採寸しておく。そしてブティックで気に入った服を見つけたら試着室に入り、指を広げて服の寸法を測った。試着室を出てから、すぐに測ったサイズとデザインをノートに記入した。こうして自分にピッタリでお気に入りの服を手作りしていた。 高校卒業後は専門学校で服飾の基礎を学びたかった。しかし、父は反対し、大学へ行くことを希望した。 「当時の私は父に反抗していたので、結局大学へは行かず、自分で専門学校の学費を稼ぐためにアルバイトをしました」 こうして20歳になり、セツモードセミナーという学校に入学した。日本におけるファッションイラストレーターの草分け的存在である長沢節(ながさわせつ)が開いた東京新宿にある美術学校だ。順子さんはここでスタイル画を学んだ。スタイル画とは、人物がポーズをとっている絵のこと。ファッション業界ではこの絵を用いて、新しい洋服のデザインが紹介される。この学校では自由に絵を描き、それを長沢先生が見守るスタイルの授業で、順子さんはとても気に入っていた。 学校で学んだことを活かして仕事は、衣服をはじめ、建物の外観や室内を描くパースペクティブなど、デザイン関係に従事した。36歳のとき「ハーツ&ハンズ」という学校の講師になる。これは順子さんの友人が始めたパッチワークの学校だ。その5年後、校長に就任して移住までの2年間務めた。