石原裕次郎、12月28日に生誕90年。52歳で世を去ってからも、ヒット曲は歌い継がれて
◆歌手・石原裕次郎が誕生 さて、裕次郎は『狂った果実』のダンスパーティのシーンで、ウクレレ片手に甘い歌声を披露した。ここで歌った「想い出」は、兄・慎太郎が作詞をした主題歌「狂った果実」と共にテイチクからレコード発売されることとなり、歌手・石原裕次郎が誕生した。もちろんレコーディングは初めての裕次郎、ロケ先からテイチクのスタジオに駆けつけ、あまりにも緊張していたために「ビールをください」とスタッフに頼んだ。リラックスした裕次郎はすぐにOKテイクを出した。以来、裕次郎のレコーディングにはビール、のちに水割りをスタッフが用意することが恒例となった。 歌手としても、2枚目のレコード「俺は待ってるぜ」が大ヒット。映画デビュー2年目の秋には、日活で映画『俺は待ってるぜ』(1957年・蔵原惟繕)として映画化された。港町・横浜を舞台にしたムーディなフィルムノワールは、のちの日活アクション映画の先駆けとなった。以来、日活アクションの舞台は横浜でのロケーションが多くなる。それが伝統となり、のちの舘ひろし、柴田恭兵の『あぶない刑事』に至るまで「ヨコハマはアクションの聖地」となっていく。 昭和33(1958)年の正月映画として、1957年の12月28日、裕次郎の23歳の誕生日に公開された『嵐を呼ぶ男』(井上梅次)で、ジャズ・ドラマーを演じた裕次郎が、ライバルの差し金で利き腕を怪我させられて「ドラム合戦」で演奏できなくなる。そのピンチに、裕次郎はマイクを引き寄せて「♪おいらはドラマー~」と主題歌を歌い出す。 ありえない状況だが、それがカッコよく、サマになっていて、観客は「裕ちゃんカッコイイ!」と声援を送る。まさにスターの中のスターである。この『嵐を呼ぶ男』の空前の大ヒットで、スタッフの給料の遅配を解消することができ、日活は裕次郎を中心にアクション映画王国を築いていく。
◆存在そのものが「型破り」 ことほど左様に、裕次郎はそれまでの映画界、レコード界の常識を次々と覆していった。存在そのものが「型破り」だったのである。空前の裕次郎ブームのなか、お仕着せの映画企画に飽き飽きして「俳優は男子一生の仕事ではない」とマスコミに発言。それはやがて「自分が本当に作りたい映画を撮る」ために石原プロモーション設立へとつながる。 裕次郎が石原プロを設立した頃、日本映画界には「五社協定」という、映画会社同士の暗黙のルールがあり、専属俳優が他社に出演したり、映画企画に口を挟むことは御法度だった。まして独立なんて以ての外。しかし裕次郎は、東宝専属でありながら三船プロダクションを設立した三船敏郎と共に、超大作『黒部の太陽』(1968年・熊井啓)を自ら製作、主演を果たして、大ヒットに導く。 この時、裕次郎は33歳。日本映画界はデビューの頃の勢いを失い、斜陽に歯止めがかからなくなっていたが、『黒部の太陽』の大ヒットにより、勝新太郎、中村錦之助などスターたちが自らプロダクションを率いて映画制作をする「スタープロ」の時代が到来。斜陽の映画界もそれを歓迎、事態は一変した。しかしわずか2年後には、石原プロも5億8000万円の借金を背負ってしまう。しかも、この頃、裕次郎は結核を患って長期入院。「太陽伝説」にも翳りが見えていた。 しかしこれまでも、さまざまなアクシデントから復活し続けてきた裕次郎に、再びチャンスが訪れる。東宝制作による日本テレビの刑事ドラマ『太陽にほえろ!』(1972~1986年)のボス役として、今度はお茶の間に登場。映画スターのテレビ進出は大きな話題となり、テイチクからリリースされていたレコードの売り上げも急上昇。スター裕次郎は見事に復活を果たした。 しかも『太陽にほえろ!』の現場で、テレビ映画制作のノウハウを学んだ裕次郎は、どん底の時に自分を慕って石原プロに入社した渡哲也主演、日活時代からの盟友・倉本聰の企画・脚本による社会派刑事ドラマ『大都会-闘いの日々-』(1976年)を製作。この成功により、『大都会』シリーズは派手なアクションドラマへと進化。それが新たなる伝説『西部警察』シリーズへと発展していく。 しかも1981年4月、裕次郎は『西部警察』撮影中に倒れ、慶應病院に緊急入院。解離性大動脈瘤と診断され大手術、生還率3%と呼ばれたが奇跡的な回復を遂げ、見事に復活した。それから6年、裕次郎は『太陽にほえろ!』の藤堂係長、『西部警察』の木暮課長、頼もしきボスとしてお茶の間のファンを楽しませてきた。