家康が利用を試みた後藤基次の「自尊心」
■後藤基次の武功の原動力となる「自尊心」 後藤基次(ごとうもとつぐ/又兵衛)は、黒田家の家臣として数々の武功を挙げたものの二代目の黒田長政(くろだながまさ)との折り合いが悪く出奔し、大坂の陣で豊臣方として戦った悲運の猛将というイメージが強い武将です。 黒田官兵衛(くろだかんべえ)こと孝高(よしたか)からは重宝され活躍をしていましたが、長政からは奉公構(ほうこうかまい)を出され他家への仕官を邪魔されるほど険悪な関係となっています。黒田家からの出奔は、長政が禁じていた他家との交流を止めないなど、基次の不行状が原因だと言われています。 数々の武功を挙げた結果、他家からも高い評価を得ていく一方で、基次の振る舞いに対しては批判もありました。これは基次の「自尊心」の高さが影響していると思われます。 ■「自尊心」とは? 「自尊心」は辞書などによると「自分の人格を大切にする気持ち」「自分の考えや言動などに自信を持って、他人からの干渉を無視して品位を保とうする態度」をさします。自尊心はメンタルを維持するためにとても重要なものです。しかし、あまりに強すぎるとデメリットが目立ってしまいます。 人を見下す、自己承認欲求が強い、妥協しない、攻撃性が強いなどにより、周囲に不快な思いをさせます。そのため「自尊心が高すぎる」というように、マイナスな使われ方をする場合もあります。 基次はこの「自尊心」を原動力として武功を積み重ねていきます。 ■後藤基次の事績 後藤家は播磨国姫路において別所家に仕えていたようで、父基国(もとくに)は織田家との三木合戦において討死しています。 基次は幼少のころから孝高に仕えていましたが、伯父の行動により一族が追放となり、一時的に仙石秀久(せんごくひでひさ)に仕えています。九州征伐の戸次川(へつぎがわ)の戦いで秀久が大敗したあと、黒田家に100石で再仕官したようです。城井家との戦いでは重傷を負うものの、文禄慶長の役などに従軍し武功を積み重ねていきます。 関ヶ原の戦いでは、石田三成(いしだみつなり)の家臣を打ち取るなど活躍し、大隈城の城主として1万4千石ほどの所領を得ています。但し石高は1万6千石など諸説あります。 しかし、1604年に孝高が亡くなると、二代目当主の長政との関係が悪化し、突如として黒田家を出奔します。その後、他家への仕官をするものの長政による奉公構もあり長く続ける事ができず、最終的に京都において浪人生活を送ることになります。 そして、徳川家との関係が悪化した豊臣家からの誘いを受けて大坂城に入城します。これまでの活躍の裏には「自尊心」の強さが見える逸話も多くあり、大坂の陣でも同様の逸話が残されています。