家康が利用を試みた後藤基次の「自尊心」
■評価を高める数々の活躍 基次は文禄慶長の役の晋州城攻略戦において加藤清正(かとうきよまさ)の家臣と一番槍を争い、関ヶ原の戦いでは石田三成の家臣で槍使いの大橋掃部(おおはしかもん)を一騎打ちで打ち取るなど、槍働きでも数々の功績を挙げています。 同僚の母里友信(もりとものぶ)、黒田一成(くろだかずしげ)と交替で先陣を任されるなど、武人として高く評価され、黒田家の重臣として黒田八虎にも数えられています。関ヶ原の戦い後には、友信が1万8千石、一成が1万2千石、基次も二人に準ずるように1万4千石を拝領している点からも、黒田家中での地位もかなり高いものでした。 武者働きが評価される一方で、戦闘指揮官としても高く評価をされています。関ヶ原の戦いの木曽川・合渡川(ごうとがわ)の戦いにおいても藤堂高虎(とうどうたかとら)から強硬渡河について意見を求められています。 大坂の陣では五人衆として大野治長たちを補佐し、本町橋の夜襲戦でも具申を求められてます。道明寺の戦いでも臨機応変に布陣し孤軍ながら奮戦し、敵将奥田忠次(おくだただつぐ)を打ち取るなどの活躍を見せました。徳川家康が大坂方で警戒すべきなのは基次と御宿政友(みしゅくまさとも)だけであると語ったとも言われています。 ■「自尊心」の高さが生み出す弊害 基次が黒田家を出奔する原因となったのは、細川家や池田家との交流を禁じる長政の命令を無視し続けた事だと言われています。この無視は、城井家との戦いで長政に退却を具申したものの聞き入れられず、大きな敗北を喫した事に対する当てつけだと言われています。 ただし、この戦いでの退却戦において、長政は殿を務めたと主張したものの、実際は陣羽織を脱いで目立たないようにしていたという逸話があります。基次には他にも「自尊心」の高さが伺えるエピソードが多く残されています。 そして、大坂の陣で敵から狙撃されたものの致命傷を免れた事に対して「秀頼公の武運は強い」と言い、同僚から呆れられたという逸話もあります。 真田丸について真田信繁(さなだのぶしげ)と揉めた際には、信繁や長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、毛利勝永(もうりかつなが)たち豊臣家の直臣筋と同格として軍議に参加させるという案を受けると、満足したのか怒りの矛を収めています。 このような基次の「自尊心」の高さを利用して、家康は播磨50万石での寝返りを打診しています。これを断ったものの内通の噂が立つなど、同僚などから反発も受けています。 このような感情の縺れが道明寺の戦いでの作戦ミスに繋がっているのかもしれません。 ■「自尊心」の強さのメリット・デメリット 基次は「自尊心」を原動力として、徳川家だけでなく池田家や前田家から誘いを受けるほどの活躍をしてきました。その一方で、同僚からの評判を落とす事もあり、道明寺の戦いでの敗北について長宗我部盛親は基次の独断専行による敗戦、もしくは裏切りだったと信じていたと言われています。 現代でも、「自尊心」が成功の原動力となる事が多々ありますが、その反面、高すぎる「自尊心」によって反感や軋轢を生み出す事も少なくありません。 もし「自尊心」をうまく抑える事が出来て、長政との関係性が良好に保たれていれば、後藤家は黒田家の重臣として幕末まで存続できたかもしれません。ただし、後の福岡藩で起きた黒田騒動を無事に乗り切れるかどうかがポイントになりそうです。
森岡 健司