メルセデスの実力派「マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ」が不運のレーサーと呼ばれた理由は? タイヤパンクに車両火災…で幾度も勝利を逃したのでした
新レギュレーションに合わせて新型マシンを投入
1938年は大改革の年であった。1938年~1940年まで適用された3Lレーシングフォーミュラは、スーパーチャジャーなしで最大シリンダー容積が4.5Lに、そしてスーパーチャジャー付で3Lに制限され、レーシングカーの最低重量は850kgとなった。こうして同じスタート条件が保証された。自動車メーカーはすでに短期間のうちに、半分のエンジン性能でスタート可能にしたメルセデス・ベンツのスーパーチャジャー付き3LのW154のシルバーアローに対してなすすべがないとわかった。 ヌボラーリは立腹しアルファ ロメオを去ってしまった。そして、今まで世界のレースを最も多く提供してきたアイフェルレースが中止となったのだ。その後、7月24日のドイツGPは再びニュルブルクリンクでスタート。メルセデス・ベンツ、アウト・ウニオン、アルファ ロメオなどのスーパーチャジャー付き新3Lマシン、加えてドライエの騒々しいスーパーチャージャーなしの4.5Lレーシングカーが参戦した。 ヌボラーリは、アウト・ウニオンでデビュー。彼はベルント・ローゼマイヤーの代役を務めた。ローゼマイヤーはこの年のはじめ、スピード記録挑戦の事故で亡くなっていたからだ。アルファ ロメオはこのマエストロ(名人)を失った為、新たにワークスレーシング部門、Alfa-Corseを編成したが、当然の事ながらうまく機能するはずもなかった。 プラクティスタイムによるスタートポジションには、ニュルブルクリンクの30万人以上の観客はすでに慣れていた。スタート時、ちょっとした故障がありシグナルシステムのグリーン・ライトがパッと点灯しなくなった。メルセデス・ベンツレーシング監督のアルフレッド・ノイバウアーは飛び出し、そして手でスタートの合図をした。迫力のエンジン音と共に高速マシンが消え去った。 すぐ、4台の新しいメルセデス・ベンツW154に乗ったフォン・ブラウヒッチュ、シーマン、カラッチオラ、ランクがリードした。次いで、新しい「アウト・ウニオン タイプD」に乗ったハッセ、ミューラー、そしてシュトウックがぴったりと追討する。このタイプDは、工学士のエーベラン・フォン・エーベルホルストの設計によって開発された。すでに、フェルディナンド・ポルシェ博士はフォルクスワーゲンのプロジェクトを委託され、顧問として自由になる事ができなかったのであった。 ヌボラーリは、リアエンジンを搭載した不慣れなアウト・ウニオンを操縦しながら、ウインドウに付着した数カ所のオイルの跳ねを拭き取ろうとした際、溝にはまり込みリタイアしてしまった。