メルセデスの実力派「マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ」が不運のレーサーと呼ばれた理由は? タイヤパンクに車両火災…で幾度も勝利を逃したのでした
新型マシンで戦いを挑むも車両火災で勝利を逃す
レースはハードな展開となり、1台また1台とリタイアしていった。人気者のカラッチオラは胃痛で苦しみ、すでにリタイアしていたヘルマン・ランクに自分のメルセデス・ベンツを引き渡した。アウト・ウニオンでは、ヌボラーリがH.P.ミューラー(ヘルマン・パウル・ミューラー)の車両に乗った。 ところで、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは、稀にみるクリーンで激しいレース展開をしていた。しかし、彼は非常にイライラしチームメイトのリチャード・シーマンを追い抜き、すでに勝利を手中に納めたかの様に思えた。両者はお互い、燃料補給やタイヤ交換の為ピットイン。メカニックの不注意によって、フォン・ブラウヒッチュのタンクから燃料がパシャとこぼれた。ちょうどその時、彼はイグニションスイッチを入れ、エンジンを掛けてしまう。あっという間に、彼の車のリアは高く燃え上がった炎に包まれた。 10万人以上の喉元から途方もない恐怖の悲鳴が起こった。消火器が吹き付けられ、炎はすぐに消し止められたことで大惨事には至らなかった。そしてフォン・ブラウヒッチュは再びレースに戻った。しかし、シーマンはすでにピット・アウトしており、トップに立っていた。ハードなレースで焼け跡だらけになったこのイギリス人は25歳の若者で、メルセデス・ベンツに勝利をもたらした。一方、フォン・ブラウヒッチュは再び「まったく運の無い奴」として、優勝者表彰をみる事はなかった。 ちなみに、フォン・ブラウヒッチュはレースでは赤いレザーヘルメットをかぶっていた。そのためか、1938年からメルセデス・ベンツチームのレーサー識別用として、車体前部のグリル部に色が塗られようになり、フォン・ブラウヒッチュには赤が割り当てられた。 1939年、9月3にベオグラードで開催されたユーゴスラビアGPは、フォン・ブラウヒッチュがW154を駆ってメルセデス・ベンツチームから参戦した最後のGPレースとなった(成績は2位)。 このユーゴスラビアGPで、フォン・ブラウヒッチュはまさに戦争が始まろうとする騒然としたベオグラードの空港からスイス行きの飛行機に乗って敵前逃亡を謀ったが、アルフレッド・ノイバウアー監督に連れ戻されてレースに出たというエピソードを残している。
妻谷裕二