メルセデスの実力派「マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ」が不運のレーサーと呼ばれた理由は? タイヤパンクに車両火災…で幾度も勝利を逃したのでした
ピット作業でリードを築いたのだが……
タイヤの交換によって順位はめまぐるしく変わり、ここでフォン・ブラウヒッチュがトップに立った。そして距離をおいて、ローゼマイヤー、カラッチオラ、シュトウックと続く。ヌボラーリはかなり遅れている。怒りに燃え上ってはいたが、しかし自信に満ち溢れ、レースが始まった時と同じ様に絶えず一定したスタイルで周回し、遅れを取り戻していった。 ローゼマイヤーとシュトウックは再びピットインしなければならなかった。14周目の終わり頃には、ヌボラーリが第2位になり、フォン・ブラウヒッチュのリードは1分30秒に。フォン・ブラウヒッチュは、もう一度タイヤを交換するにはまだ十分な時間があると考えた。しかも、このやる気のある戦士はノイバウアー監督の指示を無視した。まだ3周残っている。両者の間隔は33秒に迫っていた。フォン・ブラウヒッチュは、より速くなった。 だが、メルセデス・ベンツのタイヤの表面が亀裂し、すでに少し白っぽいキャンバスがチラチラっと光っていた。マンフレッドは、リアタイヤだとわかったが、今やタイヤ交換するには遅すぎた。最終コーナーに入ったとき、メルセデス・ベンツのバックミラーに、ヌボラーリのアルファ ロメオがチラリと見えた。まだ、数メートルは走行可能であった。その時、バーンという音がした。ゴール直前、メルセデス・ベンツのリムからタイヤがズタズタになって飛び散ったのだ。 こうしてタツィオ・ヌボラーリはドイツGPで優勝。小柄で筋骨たくましく、細くてシャープな顔立ちのこのイタリア人は43歳という「オールド・ドライバー」にとって、偉大な日となった。旧式のアルファ ロメオが優れたシルバーアローの大群を打ち負かしたのだ。不屈、エコノミー、加えてドライブ・テクニックの勝利と言えよう。 ハンス・シュトウックは第2位に入り、自己の記録を更新した。ルドルフ・カラッチオラは不可解な病気にも拘らず、最後まで気力を維持し、第3位。ベルント・ローゼマイヤーが第4位、その後に、やっとマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが3輪状態で第5位にゴールした。肉体的に疲れ果て、そしてかなりショックを受けたフォン・ブラウヒッチュは、ヌボラーリの優勝者表彰をみることができなかった。 1937年、メルセデス・ベンツが満を期して投入した怪物マシンW125は見事な期待に応えた。フォン・ブラウヒッチュは1937年8月8日のモナコGPでノイバウアー監督の指示に逆らい、チームメイトのカラッチオラと激しいバトルを繰り広げる。結果としてカラッチオラの車両がトラブルに見舞われことでこのレースを制し、GPレースにおける初勝利を挙げた(メルセデス・ベンツは1位から3位を独占)。 この年、ほかのレースでもフォン・ブラウヒッチュは上位の成績を収めたかに見えたが、非選手権のドニントンGPではアウト・ウニオンのエースであるベルント・ローゼマイヤーとの間で、激しいバトルを演じ、この年のハイラトのひとつになった。このレースでも「まったく運の無い奴」らしさを発揮し、80周のレースで61周目までフォン・ブラウヒッチュがトップを走っていたが、ヘアピンコーナーでタイヤがバーストしてしまい、またもやこれが敗因となった。