食堂経営からスキー場経営へ スノーリゾート界の風雲児 ー株式会社マックアース
更に一ノ本氏は勝負に出た。1995年、順調に売り上げを伸ばしている中、建物の一部老朽化もあり、増改築を計画した。古い部分だけを建て替えるのか、思い切って大々的に改装するのか悩んだが、「キャパが変わらなければ売り上げは伸びないし、借金が増えるだけ。どうせやるんだったらキャパも増やそう」、そう決意した。だが売り上げの2~3倍にも上る多額の借金に、引退した父は大反対だった。それでも父の反対を押し切って強行した。 一ノ本氏には実は勝算があったのだ。「ハチ高原に今までなかったキャパの宿を建ててやろうと。それには一軒の宿に2校泊める仕組みを作ること」。2校同時に泊めながらも、お互いの学生が全く顔を合わせない“からくり”。これまで学校相手に商いをしてきたノウハウを結集させて、導線を考え自ら設計図を描き、プロに手を加えてもらって完成させた。関西ならではの理由ではないが、血気盛んな中学生が1つの導線を利用となると、トラブルが起こってしまう可能性もある。引率する方への配慮として、玄関から食堂から全て2つ造り、導線がまじわることの無い設計にした。 これが見事にヒットして、売り上げは着実に増えた。学校の利用が、かつては年間約50校だったのを、一ノ本氏が入社してから営業力によって倍増させ、その増改築で170校にまで増やすことができた。周りでは、一般客が減り汲々としていた2002年、売り上げはピークになった。「バブルがとっくに吹っ飛んでる時に、ウチはピークを迎えた」。全ては計算通りだった。と同時に、「『地域で1番になんなきゃ』と猛烈に思っていた」という野望も叶い、ハチ高原でナンバー3からトップの売り上げにまでのぼりつめた。 ■2軒目のホテル。そしてスキー場経営へ そうなると次なる勝負に出たくなる。他県への進出だ。2002年、滋賀県に「奥琵琶湖マキノパークホテル」を建てた。それまで培ったノウハウを生かし、ここはなんと一般客お断りの学校オンリーと決めた。カヤック・スクールを併設し、それを売りにした。 しかし他県の人間に対する風当たりは強かった。「兵庫県の人間が滋賀県で商いをするわけだから、最初は地元の皆さんからは『商売敵になるんやろ』、『何でもできると思うなよ』みたいなのがあって、ホント大丈夫かなと思いながら行ったんです」。なかなか受け入れてもらえなかった。