江戸時代の奉行所は「アル中更生施設」だった?…「江戸時代の酒乱たち」は親族や町にどう扱われ、どう裁かれていたのか
人は何かをきっかけに、理性を失ってしまうことがある。いつの時代、どこであっても、だれにでもあり得ることである。しかし、理性を失うにしても、現代の感覚では理解しがたい場面が、江戸時代の長崎奉行による裁きの記録「犯科帳」には多々見られる。 【画像】1825年の出島 徳川社会に生きた人々の酒にまつわる人間模様に注目して江戸時代のリアルを見てみよう。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】
加害者と被害者の関係が刑に影響
相手が死なずとも、傷つけた相手との関係で加害者の刑が異なることもあった。つぎは酒に酔って相手を殺しても死罪にならなかった例である。 寛文一一(1671)年一二月一六日、清左衛門は酒乱の上、弟・吉十郎の腹を小刀で刺してしまい、翌日に吉十郎が死んだ。この場合、他人ではなく肉親を殺害した例となる。清左衛門は牢に入れられ、翌年六月一二日に五島に流刑になっている。兄弟間での犯行であることが清左衛門の減刑に繋がったのだろう(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)一八頁)。 また、つぎのような例もある。享保四(1719)年正月二日、酔っ払った新助が主人・吉太夫の女房と娘を傷つけた。そこに吉太夫の聟・西善右衛門が現れた。この時、善右衛門も手傷を負ったが、どうにか新助を取り押さえることができた。その後、新助を取り調べてみると、普段から酒乱で、今回の件も覚えていないという。 この事件、酒乱で相手を傷つけたといっても主人の妻子を傷つけたわけで、奉行所は新助に入牢を命じ、江戸の判断を待った。何よりも忠節が重んじられる時代、主人の妻子に手傷を負わせたことは幕府にとって許されざることだった。そのため新助は死罪となった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)一六九頁)。 そのいっぽうで、享保九(1724)年、本石灰町の七左衛門、小平、六平次の三人が、丸山町の仁右衛門の所に行って仁右衛門に傷を負わせ、家財を壊したという事件もあった。仁右衛門の女房がこの件を奉行所に直訴し詮議がはじまった。 しかし三人は酒に酔っていてその時のことを覚えておらず、日頃から仁右衛門を恨んでいたわけでもないと話した。奉行はこの三人が酒乱であることをふまえて、仁右衛門平癒の上、治療代を差し出したことから許すとした。先ほどの事件とさほど差はないように見えるが、忠節を重んじる時代にあっては加害者と被害者の関係が処罰の判断に大きな影響を与えていたのである(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)一九七頁)。