「動けなくなった自分が面白くて」脳出血で右半身不随、“左手のピアニスト”舘野泉の原動力
声楽家のマリアさんと結婚して子宝に恵まれる
シベリウス・アカデミーでは運命の出会いも待ち受けていた。のちに舘野の妻となるマリアさんは、シベリウス・アカデミーで声楽を学ぶ学生だったのだ。お互い面識はあったものの、特別な感情は持っていなかったという。 しかし、毎夏行われるフィンランドの音楽祭で2人は恋に落ちた。階段から下りてくるマリアさんを見た舘野は、「あなた、ピアニストがいるんじゃない?」と声をかけ、運命が動き出したのだ。 当時マリアさんは歌手として大事なコンサートを控えており、ピアノの伴奏者を探していた。ピアニストとしての舘野を尊敬していたが、多忙な彼に依頼しにくかったそうだ。 ところが舘野のほうから伴奏の申し出があり、このタイミングで恋が生まれたのがお互いにわかったという。すぐに同棲生活が始まり、以後、50年にわたり2人は連れ添っていく。 息子のヤンネさんと娘のサトゥさんという、2人の子どもにも恵まれた。バイオリニストとして活躍するヤンネさんは、自身の子ども時代を次のように振り返る。 「父は世界中へ演奏旅行に出かけて留守が多かったですが、旅に出ていないときは、ずっと家でピアノを弾くかデスクワークをしていました。ピアノの音がすると父が家にいることを感じられ、私は居心地がよかったのです。時々料理もしてくれて、カレーや蕎麦を食べたいと言うとすぐに作ってくれました。妹はフィンランドに住んでいますが、時々、無性に父のカレーや蕎麦が食べたくなると言っています」(ヤンネさん) 舘野は子どもがやりたいことを尊重して、一切口出しすることがなかったという。 「私は幼いころからバイオリン教室に通っていましたが、両親共に忙しく、発表会に来たこともありません。でも自分の演奏を親に聴いてほしくなかったので、寂しいと思ったことはないんです。 一度だけ、ミュージックスクールの試験のとき、たまたま時間があった父が伴奏をしてくれたことがありました。“Izumi Tateno”がやってきたことに先生たちは驚いていました。すごくうれしくて気分よく弾けて、帰りにハンバーガーセットを一緒に食べたことは今でもいい思い出です」(ヤンネさん) 一方、サトゥさんは音楽の道には進まず、フィンランドの介護業界で働いている。小さいころから自分の意志を貫くサトゥさんを舘野は信頼し、見守ってきた。 「サトゥは小さいときにピアノをやめてしまいました。とてもいい感覚を持っていたのですが、ピアノの先生とうまく合わずやめてしまいました。高校生のときには校長先生とケンカして学校をやめ、1人暮らしを始めてしまいました。でも苦労しても彼女の人生は彼女のもので、僕のものではありません。サポートはしますが、理想や常識は押しつけないようにしていました」 とはいえ、舘野は演奏旅行で家にいないことが多い。仕事をしながら、家庭のことを担っていたマリアさんの心労は大きかったはずだ。ヤンネさんはそんな両親をどう見ていたのだろうか。 「両親はお互いに音楽家として尊敬し合っていて、母は父がやりたいことを誰よりも理解していました。夕食のときはいつも2人でワインを飲みながら、いろんな話をすることをとても大事にして、楽しんでいました。でも、('23年に)母が亡くなると、手続きや家のことなど、父や私たちにはわからないことがたくさん出てきて、何も言わずに母が1人で抱えていたことを知りました」(ヤンネさん)