「動けなくなった自分が面白くて」脳出血で右半身不随、“左手のピアニスト”舘野泉の原動力
東京藝術大学を首席で卒業し、フィンランドを拠点に
舘野は1936年、チェリストの父、ピアニストの母のもとに長男として生まれた。2人が自宅で音楽教室を開いていたことから、常に身近なところで音楽が響いていたという。 きょうだいは4人で、舘野がピアノ、弟はチェロ、妹2人がバイオリンとピアノを習っていた。東京・自由が丘の自宅では、舘野がピアノの練習をしている横で弟は学校の宿題をし、妹は昼寝をしている。そんなのんびりした子ども時代だったが、後にきょうだい全員が音楽家になったというから環境の影響は大きい。 「父は『音楽家として生きていくほど幸せなことはない。子どもが生まれたら皆、音楽家に育てるんだ』と言っていたそうですが、かといって英才教育をしたわけでもなく、われわれ子どもたちは野球をしたりトンボやセミ捕り、ザリガニ捕りなどで遊び回っていました。でもそれと同じようにピアノもチェロも好きで、生活の一部として毎日弾いていましたから、自然に音楽が身につき、音楽家として生きるのは自然で自明のことだったのでしょうね」 舘野は小学生のとき、習字の授業で紙からはみ出すほど大きな字を書いて先生に叱られたが、母は「はみ出すくらいが面白いのよ」と褒めるような人だった。 舘野がピアノを習い始めたのは5歳。10歳のときにはドビュッシーの『子供の領分』を弾いて全日本学生コンクールで2位入賞。それからは豊増昇、安川加壽子、レオニード・コハンスキーといった一流の音楽家に師事し、ピアノの腕を磨いていった。 中・高は慶應義塾に通い、一浪して東京藝術大学へ入学。首席で卒業した舘野は、すぐにデビューリサイタルが実現するなど、クラシック界から一目置かれていた存在だった。しかし、日本を離れて世界を回った後、27歳でフィンランドへ移住することを決めて周囲を驚かせた。 「音楽のキャリアを積むなら、ドイツやオーストリア、フランス、イタリアなどに行くことが当時の常識でした。でも従来の権威や価値観に縛られるのが嫌で、西洋音楽の伝統が強い国には行きたくなかったのです。文学や絵画、演劇にも興味があり、幅広く伝統や文化に触れたい、雑音が入らない場所で1人になってみたいという思いもありました」 実はもともと「北」への憧れが強かった。中学生のときに北欧文学に触れ、高校時代にはペンフレンドを求めて北欧4か国に手紙を出したことがあるという。 「そのとき返事が来たのがフィンランドの女性だけで、ペンフレンドとして交流が続きました。移住を決めたときも、その女性と家族がサポートしてくれたのです」 1964年10月、舘野はフィンランドで初めてのリサイタルを開いた。シューマン、ラフマニノフ、プロコフィエフに三善晃のソナタを演目に加え、圧倒的な演奏で日刊紙7紙で絶賛された。しかし仕事のオファーはすぐには来なかった。 「フィンランドにやってきて5か月で日本から持っていったお金が底をつき、下宿を追い出されてしまいました。そんなときに教授の仕事をオファーされ、しばらくは教職につくことにしたのです」 そのうち演奏会の機会が増えていき、知名度も上がっていく。1968年にはフィンランド唯一の音楽大学、シベリウス・アカデミーの教授に招聘され、音楽家としての地位を確立していった。