「動けなくなった自分が面白くて」脳出血で右半身不随、“左手のピアニスト”舘野泉の原動力
ファンクラブができ、岸田今日子さんと共演
舘野の音楽活動は順調で、フィンランドを拠点にしながらも、1970年からは東芝EMIの専属になり、以後30年間で約100点以上のLP、CDをリリースした。 1972年にはマックス・ファクターの男性化粧品のテレビCMに起用され、クラシック界で初めてFCが結成されるほどの人気となった。 この時代、舘野のピアノに魅せられ、舘野の指導を受けるためにフィンランドに留学をした女性もいる。上野学園大学名誉教授の久保春代さんだ。 「東京藝術大学に在学中、オーケストラとのリハーサルで舘野先生の譜めくりを務める機会があったのですが、演奏を間近で聴いて、あまりの素晴らしさに衝撃を受けたのです。先生のピアノは音から色が見え、香りが立ちのぼってくるようでした。こんなピアノが弾きたい!と強い思いが湧いてきて、どうしても先生の指導を受けたくて、大学卒業後はフィンランドに留学したのです」 それから50年以上、自身もピアニストでありながら、舘野のファンを公言してきた久保さん。 「私は理屈で考えてしまうタイプだったのですが、先生のおかげで心で音楽を育み表現することを学び、成長することができました」(久保さん) '80年代に入ると、舘野はヘルシンキ・フィルや東フィルの海外公演のソリストとして活躍。'90年代には音楽祭の監督をするようになり、日本では俳優の岸田今日子さんとの「音楽と物語の世界」のシリーズも始まった。 「もともと音楽と文学を融合したいという思いをずっと持っていて、やるなら岸田今日子さんしかいないと決めていました。初めて岸田さんにお会いしたとき、何も言わなくても心が通じ合う人だと確信できました。岸田さんの語りと僕のピアノでコンサートを始めましたが、どう合わせるか相談をしたことが一度もなく、阿吽の呼吸でできてしまうんです」
脳出血で右半身不随になるもリハビリを楽しむ
今までになかった音楽と文学のセッションは大好評だったが、2002年1月、舘野は脳出血で倒れてしまう。フィンランドでのコンサート中、残り2分となったとき、右手がだんだん動かなくなっていった。最後は左手だけで弾き終え、立ち上がって、お辞儀をして歩いたところで意識を失った。 救急車で近くの大学病院に搬送され、一命は取り留めたが、脳の出血は3・5センチほど広がっており、後頭部のためメスを入れられなかった。右半身不随の後遺症が残り、医師は舘野の家族に「彼はもうピアノを弾けないだろう」と言っていたという。 その後、自宅があるヘルシンキの病院に移送され、リハビリが始まった。リハビリといえばつらいイメージがあるが、舘野は「とても楽しかった」と思い返す。 「全身を動かす、手先を細かく動かす、記憶を呼び戻す、文章を作って話すといった課題がそれぞれの専門家から与えられます。それがとても新鮮で、何かが目を覚ます感覚がうれしかったんです」 リハビリから2週間たつと医師から「回復状態がいいから退院してもいい」と言われるが、舘野は「リハビリがとても面白いから、あと2週間いさせてください」とお願いしたという。自宅に戻ってからも悲愴感はなく、舘野はどんなときも前向きだった。 「転んだり、しゃがんだら立てなくなったり、そんな自分がおかしくて。マリアは後年、『リハビリ中ほど笑った日々はないわね』と話していました。当時は演奏会で世界中を飛び回っていたので、『これからはずっと私のところにいてくれるのね』なんて言いながら見守ってくれました」 右手のコントロールはきかなくなったが、倒れてから半年後、親友のチェリストの伴奏を両手で5分ほど行った。観客は感動して泣いていたが、舘野は珍しくその夜は落ち込んだという。 「まったく歯が立たず、情けなかったのです。このとき、日本から招聘したピアニストの小山実稚恵さんがアンコールで『左手のためのノクターン』を弾いてくれました。素晴らしい演奏で、『左手だけでも活躍ができるわよ』という彼女からのメッセージだったのでしょう。とてもうれしく思いましたが、翌日には左手だけでやっていこうということなんか頭にありませんでした。きっと機が熟していなかったのだと思います」