「世界のたくさんのニュースを伝えたい」渡米する女性アナウンサーの挑戦
「キラキラ」のアナウンス研究会に馴染めず、幽霊部員に
佐々木さんは北海道生まれ。小学校2年生の時に地元のテレビ局の情報番組を見て、デパ地下でリポートするアナウンサーに憧れ、「私もやってみたい」と思うようになった。しかし、テレビに出る人になりたいなんて、友達にからかわれるかと思い、その気持ちはそっと胸にしまっていた。 大学は早稲田大学。アナウンス研究会にも所属していた。しかし、アナウンサーを目指す人たちは、自分とは違う世界の人間でキラキラしている人たちが多く、いつの間にか幽霊部員になっていた。
山形テレビで念願のアナウンサーに
それでも秘めた思いは膨れ続け、佐々木さんを突き動かしていく。当時は、大学3年生の夏ごろからテレビ局の採用試験は始まった。東京、大阪と落ち続け、北は北海道から南は九州まで受け続け、テレビ朝日系の山形テレビでアナウンサーとしてのキャリアをスタートすることになる。 地方局はアナウンサーとしてスタジオでニュースを読む以外に、カメラマンとともに取材に出て原稿を書くことも求められる。時には一人でカメラをもって取材に出かけることもあった。
「現場に行く」ことへのこだわり
佐々木さんは実は、アナウンサーとして仕事をする前から「現場に行く」ことにこだわりを持っていた。それは大学生のころの経験が関係している。佐々木さんは大学2年生の春休み、中国の広州で1カ月間ボランティアとして活動した。 病気に苦しむ人たちが集団で暮らす施設で、身の回りの世話をした。水道はなく、水は井戸からくみ上げた。ガスもなく、風呂もなかった。中国にはこういう場所もあるのかと、見るもの聞くものすべてが初めての経験だった。本や新聞、インターネットにもない自分が知らない世界を、実際に足を運んでこそ知ることができた。この経験が、佐々木さんがのちにアナウンサーになったときに、現場に行くことにこだわる取材姿勢につながったのだという。
2011年3月11日金曜日。午後2時46分。東日本大震災。被災した地域が広く、現地のテレビ局だけでは取材し切れないところをカバーするために、山形県のテレビ局では、記者やカメラマンを派遣していた。