坂口征二「幻の金メダル」に「本田圭佑の親戚」も…「五輪」と「プロレスラー」の深すぎる因縁を振り返る
本田圭佑が憧れたレスラー
64年の東京オリンピックは、後に続くアスリートたちを大いに刺激した。後に中央大学法学部から全日本プロレス入りするジャンボ鶴田もその1人だった。 当時、中学2年生だった鶴田は、その体躯から夏休みに大相撲の朝日山部屋に強引に体験入門させられるも肌に合わず、途中で帰って来た過去があり、周囲に「根性なし」という目で見られていた。そこに来て飛び込んで来たのが聖火ランナーへの推薦。中学1年生の時、陸上競技で記録を出したことが考慮された。 大学4年(72年)の時、ミュンヘン五輪にアマレス代表として出場したが(予選敗退)、実はこの時、公式戦デビューから2年も経ってなかった。もともとバスケットボールでの五輪出場を目指していたが、日本のレベルからみて出場は無理と判断し、大学1年時に個人競技のアマレスに切り替えたのだ。因みに、鶴田は98年の長野五輪でもスポンサー企業からの推薦で、地元・山梨の聖火ランナーを務めており、五輪と浅からぬ縁があったと言える。 同じ全日本プロレスでは、本田多聞がアマレス代表でロサンゼルス、ソウル、バルセロナと3度の五輪出場を果たしており、ロサンゼルスでは5位に入賞している。全日本選手権では通算8度も優勝しているが、93年のプロデビュー時は30歳を超えていたこともあり、どちらかというとアマレスラーの印象の方が強い選手かも知れない。 ちなみに、多聞の父方の兄の孫は、後のサッカー日本代表、本田圭佑である。彼が少年時代、多聞を引き合いに、こう聞いたという。 「どうすれば叔父さんのように活躍出来るの?」 同じアマレス経験者である三沢光晴も、「俺らからしてみれば神様みたいな存在」と、本田の凄さを語っていた。
「僕の青春を取り戻したい」
新日本プロレス系では、アマレス選手養成機関「闘魂クラブ」所属だった中西学が、バルセロナ五輪に出場している。25歳だったが、出身高校の宇治高校で激励式がおこなわれ、金色のメダルを贈られるも二回戦で敗退した。 参加者ではないが「応援者」として、アマレスラー・浜口京子の父、アニマル浜口も忘れ難い。2008年8月12日、北京オリンピックで京子を応援するため北京空港に降り立った浜口は、テンションが上がったのか、 「絶対負けない絶対勝つ! 絶対負けない絶対勝つ! ワッハッハ!」 とラップ気味に連呼。空港警察が寄って来る騒ぎに。翌日の地元紙には、小ネタとして、こう報じられていた。 〈ワハハ親父 空港警察を困らせる〉 現・石川県知事の馳浩もアマレス代表経験者であり、ロサンゼルス五輪でルーマニアの選手相手に二回戦で敗退。だが、試合後に食事をし、その選手にこう言われたことが忘れられないという。 「ボイコットせず、君と戦えて、本当に良かった」 1980年、モスクワ五輪では西側諸国が参加をボイコットし、4年後のロサンゼルス五輪では、社会主義陣営が不参加に終わった。ルーマニアはソ連(当時)と距離を置いていたため、参加出来たのだった。 日本も不参加となったモスクワ五輪で涙を飲み「幻の金メダリスト」と呼ばれたのが谷津嘉章だ。アマレスのフリースタイル重量級で国内無敵であり、1976年のモントリオール五輪では8位に入賞したこともあり、24歳となるモスクワ五輪では、金メダリストの最右翼と目されていたが、80年10月、「プロで“凄いヤツ”と言われるように頑張ります」という言葉とともに新日本プロレスに入門した。 その谷津は1986年6月、プロアマ・オープン化の波に乗ってアマレス全日本選手権に出場する。全日本プロレスを主戦場に、長州力とインタータッグ王者として君臨していた時期であり、谷津の出場する試合には、1000円の入場料が設定された(6月27~29日。駒沢体育館)。だが、これに公然と異を唱えた男がいた。谷津自身だった。 「僕は僕の青春を取り戻そうとしただけ。なのに、客寄せパンダのように扱われて気分が悪いです……」 これはNHKも報じるニュースとなり、入場料は撤廃される。迎えた大会では、長州、アニマル浜口ら、戦友も見守る中、見事に優勝。同夜のNHKニュースのテロップが忘れられない。 〈谷津プロが優勝〉(1986年6月29日) アナウンサーは、こう報じた。 「日本で初めて実現したプロ・アマ対決は、現役プロレスラーの谷津嘉章選手が5戦全勝で優勝しました」 プロがアマに負けたらどうなるのか? そんな不安を完全払拭し、文字通り凄いヤツぶりを見せた谷津は、「三十路の青春です」と笑顔を見せた。