ただ一途に金儲け 名誉欲を超越した三大億万長者 南俊二(上)
アジア貿易で荒稼ぎ、27歳で独立
さて話は明治36(1903)年、日露戦争のころにさかのぼる。旧制大阪高等商業学校(大阪市立大)を卒業した南は、日下部商店に入社する。当時の日下部商店は三井物産に次ぐ新興貿易商社で、香港に支店(日森洋行)を構えていたが、南はそこに勤務することになった。 世界的な商社だった鈴木商店が勃興する前で、際立つ日森の勢いにひかれたのかもしれない。1年後には支店長に抜擢される。だが、好事魔多し。日下部商店はあっという間に破産する。南は先輩の安宅(あたか)弥吉と組んで安宅商会をつくり、香港を中心に稼ぎまくった。 同40(1907)年に帰国したときは40万~50万円のカネを握っていたというから、いかに香港で華僑を相手に荒稼ぎしたことか、しのばれる。ちなみに安宅弥吉は安宅産業(のち伊藤忠商事に合併)の創業者である。 「明治42年、27歳の若僧で神戸に南商店を作り、大連、上海、インド、シャム(タイ)と大豆、内地米、肥料類の取引を開始した。そしてその頃、洋行帰りの岩崎清七(きよしち)と知り合った」(三鬼陽之助著「億万長者への道」) 岩崎清七は、米相場師から身を起こし、磐城セメントを創業。日清紡績、日本製粉などの経営に関わり、後に全国実業協会会長を務めるほどの人物。
儲けた金を株に投じて“大損”
大儲けした南はその金を株に投じた。原料糖を買い付けて大日本製糖に納入していた関係で当時130~140円の大日本製糖株を大量に買い込んだ。ところが日糖の乱脈経営が発覚し、株価がたった5円前後まで暴落、大損を背負い込む。 この時、日糖株を売りたたいたのは兜町の飛将軍と呼ばれた村上太三郎、望月軍四郎の親子鷹で、二人が大儲けしたこの一件は兜町秘史の中でも語り草になっている。同45(1912)年、明治天皇の崩御に前後して米価が1石(150キロ)48円から同17円に暴落して、またも敗北。破産宣告を受けた上に第一銀行に50万円に近い借金を残し、神戸にはいられなくなって、東京に出奔する。この時、南は夫人に泣きつかれ「もう相場はやめた」と、手を出さないことを誓った。=敬称略