高貴な姉妹を妻にした敦康親王と頼通の親密な関係 2人の妻はどのような姫君だったのか?
NHK大河ドラマ『光る君へ』第43回「輝きののちに」では、敦康親王(演:片岡千之助)が妻を迎え、穏やかな心で彰子(演:見上愛)と向き合う様子が描かれた。また、道長の嫡男・頼通(演:渡邊圭祐)が妻である隆姫女王(演:田中日奈子)との間に子ができないことから、新たに妻を迎えるよう勧められて戸惑うシーンも。じつは敦康親王の妻と隆姫女王は姉妹ということで、敦康親王と頼通は義理の兄弟となった。今回はそんな2人の結婚について取り上げる。 ■村上天皇の孫である姫君を妻に迎えて義理の兄弟になった2人 寛弘8年(1011)、一条天皇は体調不良から譲位を決断したが、亡き皇后・定子が残した敦康親王を東宮にしたいという願いは叶わなかった。 敦康親王については『大鏡』に「御才いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」とあるほど品格と人徳を併せ持った人物だったという。そのため、東宮、そして天皇へのルートから外れたことについて人々は同情したそうだ。 敦康親王が妻を娶ったのはその2年後、長和2年(1013)のことだった。妻となったのは具平親王の娘・祇子女王である。具平親王は村上天皇の皇子の1人で、円融天皇とは異母兄弟にあたる。具平親王自身は東宮・天皇の座とは縁遠かったが、優れた文人として知られ、詩歌管弦をはじめ書道、陰陽道、医術にも通じるというハイスペックな人物だった。 具平親王の長女・隆姫女王は、これより以前に道長の長男・頼通の正室になっており、その縁もあったと考えられている。具平親王は寛弘6年(1009)に亡くなっており、祇子女王は姉である隆姫女王と頼通のもとに身を寄せていたという説もあるのだ。これが真実なら、頼通と隆姫女王が敦康親王に祇子女王との結婚を勧めた可能性は高い。実際2人の婚儀は頼通が取り仕切ったと考えられ、『御堂関白記』には大層華やかで贅をつくしたものだったと記されている。 敦康親王と祇子女王は仲睦まじかったようで、2人の間には長和5年(1016)に娘・嫄子が誕生した。敦康親王がその3年後、寛仁2年(1018)に20歳で亡くなるまでは、穏やかに暮らしたと考えられている。ちなみに、姉妹それぞれを妻にした頼通とは義理の兄弟として仲良く過ごしていたようだ。敦康親王が亡くなり、祇子女王も出家した後、残された嫄子は頼通が養女にし、後朱雀天皇に入内させている。 一方、頼通と隆姫女王も、子には恵まれなかったものの、仲の良い夫婦だった。三条天皇が道長を懐柔すべく自身の娘・禔子内親王を頼通に降嫁させようとした際も、隆姫女王の心情を慮って躊躇した。『栄花物語』によると、乗り気でない頼通に対して道長は「男が妻を1人しかもたないというのは馬鹿げた考えだ。隆姫女王との間には子もいないのだから、他の妻を迎えて子をつくれ」と叱責したという。 結局この縁談はうやむやになって、禔子内親王は最終的に頼通の弟である教通に嫁いでいる。『栄花物語』では隆姫女王の父・具平親王が娘の行く末を案じて怨霊になって現れたとあり、『小右記』には道長に追い落とされた藤原伊周の怨霊が頼通を苦しめたとある。いずれにしても、愛妻を傷つけるとわかっていて、新たに妻を迎え入れなければならない状況に頼通自身も追い詰められていたことは想像に難くない。とはいえ、最後まで隆姫女王1人を愛し抜くというわけにもいかず、頼通は後に3人妻を迎えている。
歴史人編集部