なぜ、明治政府は禁じたのか?|正統な日本の美術史から消えた芸術「焼絵」の謎
取材・文/柿川鮎子 撮影/木村圭司 近代化を急いだ明治政府は、芸能や文化を厳しく統制した。怪談が上演できなくなったり、盆踊り、獅子舞なども厳しく規制された。展覧会を禁じられた絵画もあった。江戸の大名家や文人達が所有していた、焼絵である。 写真はこちらから→なぜ、明治政府は禁じたのか?|正統な日本の美術史から消えた芸術「焼絵」の謎 焼絵とは何か。長年、焼絵の調査を続けてきた研究家、田部隆幸さんによると、焼絵とは金属製のコテや火箸を熱して紙や絹、木などに絵画や文字を描く作品で、その歴史は古く、『続日本紀』や『平家物語』、『盛衰記』などでも焼絵の記述があるという。 「墨やペンなどの道具が無くても、火を使って絵が描ける焼絵は、私達が火を使うようになった原始時代から伝わる、もっとも古い絵の技工のひとつだったと考えられます」と田部さん。 日本では焼絵を焦画、焼画、屋記絵、火筆画、烙画と言い、中国・韓国では烙画、欧米ではPyrographyである。紙や木、絹のほか、皮革、竹の皮、竹などに描いてきた。現在、焼絵は正倉院のほか、東京国立博物館、三の丸尚三館、国立国会図書館や高麗美術館にも保管されている。 焼絵を描いていたのは、大名、僧侶、歌人、狩野派の絵師や京都四条派、浮世絵師から最後の文人画家・富岡鉄斎(てっさい:1837~1924年)、藤井達吉(1881~1964年)など、実に多い。しかし、調査不足もあり、絵画作品として見出される作品は、ごくわずかだ。焼絵専業作家の名前も、ほとんど残されていない。 現在残されている焼絵に関する貴重な資料のひとつ、『聚遠(しゅうえん)雑記(附焼絵考)』が、宮内庁書陵部に保管されている。江戸期の儒学者・屋代弘賢(やしろひろかた:1758~1841年)と林亀瑞(はやしきずい:生没年不明)が、奈良、平安から幕末までの10冊の書籍の中の焼絵への記述を抜粋して書き残した。 特に焼絵芸術が花開いたのは江戸時代である。大名は焼絵が大好きだった。江戸期に焼絵を復興した大名稲垣定淳(さだあつ:1762~1832年)と親しかった徳川御三家紀伊紀州藩第十代、徳川治宝(はるとみ:1771~1853年)は19歳で藩主となった後も、「数奇の殿様」として焼絵を描き、稲垣定淳に画号を贈るなど、親交を深めた。讃岐高松藩家老の木村黙老(もくろう :1774~1856年)は焼絵で三国志の英傑・関羽を描き、秋田久保田藩横手城代の戸村後草園(ごそうえん:1768~1854年)は美しい梅花図を作成した。 中でも譜代大名近江山上藩の第五代藩主の稲垣定淳は、焼絵を指導しながら、大田蜀山人(しょくさんじん:1749~1823)、山東京伝(1761~1816年)、式亭三馬(1776~1822年)など文化人との交流を深めていた。東海道中膝栗毛の作家・十返舎一九(1765~1831年)もその一人で、定惇は焼絵筆を3本も贈った。十返舎は大感激して、「有難き仕合せなり」と感謝の文字を、焼絵に書き残している。