2年半の捕虜生活を終えたウクライナ兵を待っていた、妻の「思いがけない反応」...一体何があったのか
思いがけず捕虜生活から解放されることとなったウクライナ兵。「最愛の妻」との再会を心待ちにしていたが──
2年半にわたりロシア軍の捕虜となっていたが、今年9月に解放されたウクライナのアゾフ兵士の1人、キリル・ザイツェバが語った過酷な捕虜生活と、彼らの帰りを待ち続けた家族たちの様子を3回に分けて紹介する。本記事は第3回。 【動画】北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは? ※第1回:朝晩にロシア国歌を斉唱、残りの時間は「拷問」だった...解放されたアゾフ大隊兵が語る【捕虜生活の実態】 ※第2回:捕虜の80%が性的虐待の被害に...爪に針を刺し、犬に噛みつかせるロシア軍による「地獄の拷問」 ◇ ◇ ◇
難航するアゾフ兵士の解放
ドイツの首都ベルリンに着いたキリルの妻アンナは、取材で知り合った記者が紹介してくれたアパートで暮らし始めた。生後9カ月のスビャトスラフは母ラリーサの協力を得つつ育てた。 アンナがマリウポリで教師をしていた際の月給は約1万5000フリブニャ(約6万円)。その貯金を切り崩しながらの避難生活だった。 この2年半、アンナは得意の英語とフランス語を生かし、ウクライナの惨状と戦争捕虜の返還を訴えてきた。ウクライナ関連の国際会議や要人との面会のためアメリカ、カナダ、イタリア、フランス、スウェーデン、ポーランドなどに足を運んだ。 昨年の7月、アンナはキリルの居場所についてある情報を得ていた。帰還したウクライナの兵士が、「タガンログでキリルを見かけた」というメッセージをアンナに届けてくれたのだ。 「問題はロシアがウクライナの捕虜をたらい回しにしていることだ。時間がたつほど、見つけ出すのが困難になる」。アンナは兵士たちの証言からそう考えていた。 その時、キリルはタガンログから570キロ離れたカムイシンの拘置所にいた。そこには捕虜たちがチャペル(礼拝所)と呼ぶ部屋があった。3階にあり、広さ20平方メートルほどで窓は1つ。十字架はなく、壁はむき出しのコンクリートだ。 「そこは拷問部屋だった。すぐに全てが終わるよう神に祈ったから、チャペルと呼ばれた。ここでも看守はアゾフ兵士かそうでないか、区別していた。ロシア人の重罪犯がいるような所だったので、扱いはとても手荒だった」 夏には41度、冬には氷点下32度を記録したこともある地での拘留生活。食事がコップ一杯の水だけのこともあり、身長181センチのキリルの体重は75キロから42キロに減った。心の支えは家族の存在だった。 「僕とアンナにはたくさんの計画があった。みんなでヨーロッパに行けるよう車を買いたい。2人で子供の成長を見守りたい。待っていてくれる家族のことだけを考えて生きていた」 開戦以降、今年8月下旬までにウクライナとロシアは55回の捕虜交換をして、3500人以上の兵士が帰国を果たした。しかし、ウクライナメディア「スラバ・ディロ」によるとアゾフ兵士についてはわずか7回で、約1100人の捕虜のうち帰国できたのは201人だった。 ウクライナの独立記念日である8月24日には115人の兵士が帰国したが、アゾフ兵士は一人も含まれなかった。ゼレンスキーは記者会見でこう語った。「さまざまな理由からアゾフ兵士の帰還には困難が伴う。そのため私は家族や関連の政府機関、国際機関と協力して取り組む」 秋を迎えた9月2週目の金曜日、22番監房のキリルに看守が声をかけた。「荷物を持って出ろ」 部屋が変わると思って通路に出たキリルは、そのまま警察の護送車に乗せられた。そして、他の3人の捕虜たちと同様に目隠しをされた。どこへ行くのか、一切説明はなかった。