2年半の捕虜生活を終えたウクライナ兵を待っていた、妻の「思いがけない反応」...一体何があったのか
看護師が『お帰りなさい!』と言って迎えてくれたが...
10時間ほどで着いた刑務所で目隠しを外された。職員たちが「軍の空港」「書類の引き渡し」というようなことを話していた。キリルたちは「もしかして......」と期待に胸をふくらませつつ、素知らぬふりをした。 その後、高速道路を一気に駆け抜け、軍用機に乗せられたのが9月14日の早朝。徐々に同行する捕虜が増え、到着した空港でバスに乗り合わせた時には100人ほどになっていた。そこで初めて解放されることを告げられた。キリルはなぜ自分が対象になったのか、今でも分からない。 捕虜交換が実施されたのはベラルーシのホメリだった。そこで、ロシア人捕虜103人とウクライナ人捕虜103人が交換された。8月6日に始まったクルスクへの越境攻撃で、ウクライナ軍は600人ほどのロシア兵を捕虜にしていた。 ゼレンスキーは「捕虜を解放する上で、クルスク作戦が最大級の貢献をしている」と評価した。戦闘に参加した兵士によると、捕虜1人当たり4000ドルの賞金が懸けられていたという。 ベラルーシからウクライナに入ったところにある国境検問所で政府の関係者や看護師が待っていた。キリルはその時のことを振り返る。「若い女性の看護師が『お帰りなさい!』と言って、バスから降りる僕たちを笑顔で迎えてくれた。そのとき本当に帰ってこられたんだと実感した」
妻アンナの思いがけない反応
キリルはその場で看護師から携帯電話を借り、妻のアンナにかけた。2年前、ベルリンに避難するつもりだと伝えられたのを最後に、家族についての情報は一切届かなかった。最愛の妻はどんな言葉をかけてくれるだろうかと、胸を高鳴らせていたキリルの表情はすぐに曇った。 「彼女の声から、僕たちの関係にとても大きな問題があることが分かった。彼女は、私たちは書類上の夫婦であり、私たちを結び付けているのは子供だけだと言う。彼女は僕からとても距離を置いていた。僕と別れたいと思っているようだった」 捕虜になってから852日、想い続けた妻との電話は数分で終わった。 夫の帰還を目指し東奔西走してきたアンナに何があったのか。キリルが解放される前の月、アンナは筆者にこんなメールを送ってきた。「母が癌を患ったようだ。私は母と息子のケアに専念している。キリルは捕虜のままで生きているかも分からない。私はもう諦めざるを得ない」 ベルリンのアパートでスビャトスラフを遊ばせていたラリーサの姿が思い浮かんだ。そして、2年半におよぶ戦禍とさまざまな重圧が、戦争捕虜の家族にかくもつらい選択を強いるものかと痛感した。この決断を下した後、アンナに届いたのがキリル本人からの電話だった。 帰還した兵士は治療やリハビリのため軍の病院に直行した。キリルは複雑骨折をした膝と、壊死しかけた足の指の治療が必要だった。診察の合間、キリルは病室でアンナに電話をかけてみた。しかし、つながらない。 しばらくして、キリルはベッドに座り語り始めた。「彼女は僕を取り戻すため世界中を回ってくれていた。本当に素晴らしい人で、誇りに思っている。でも、その妻がそばにいない。実の母や愛犬には会えたのに......。落ち込むよ」 キリルは、アンナが西ヨーロッパへの移住を決めたと確信している。一方、戒厳令による成年男子の移動制限は帰国した元捕虜にも適用される。これでは2人の関係を立て直しようもない。 キリルはスマートフォンに映る戦友との集合写真を指差し、つぶやいた。「彼は死んだ。彼もだ......。妻との関係がうまくいかなかったら、また戦列に復帰する。仲間たちの復讐をするために」 10月16日、アンナのSNSのアカウント名が旧姓に変わっていた。その日、キリルは全面灰色の画像をSNSにアップした。10月28日、スビャトスラフは3歳になった。 アゾフ兵士の捕虜約900人は、今もロシアのどこかで拘束されている。現地では厳しい冬を前に開戦1000日を迎えた。
尾崎孝史(映像制作者、写真家)