宗教共同体は、平和に貢献する一方で、争いも引き起こす。その自覚が必要だ!
カルト二世問題
宗教共同体について考える場合、今まさに日本社会の俎上に載せられているのは「信仰者の子どもたち」の問題です。二〇二二年に起こった元首相銃撃事件によって、カルト教団問題と共に注目されることとなりました。 事件をきっかけに世間で広く使われるようになった用語に「宗教二世」があります。ただ、親が特定の信仰をもっているケース自体はそれほど特異ではありません。むしろ、世界中のどの文化圏でも家族が同じ信仰をもっている家庭の方がマジョリティでしょう。それぞれの家庭における宗教風土で育つこと自体は、ごく自然な姿とも言えます。つまり宗教二世や三世というのはそれほど特殊な状況ではないわけです。 しかし、親の信仰が社会通念と大きく乖離するような教義に根差している場合や、その子どもが「そこから出ようとする」という場合などは、いくつもの困難が生じます。生まれた時から投げ込まれている宗教共同体の枠があるわけですから。 なにより、考えねばならないのは、カルトの二世です。カルトは子を囲い込み、他の選択の扉を閉じてしまいます。孤立させ、よそにいかせないようにする。だから、カルトに入信する人は人間関係が壊れるのです。この場合のカルトは「熱烈に信仰している」という意味で、伝統宗教の中にもあります。宗教以外にも、政治カルトや教育カルトもあります。 基本的には、子はその家庭の信仰で育つけれども、いつもいろんな方向の扉が開いているということが宗教の信仰継承には必要なこととなります。
宗教共同体の成熟とは何か
宗教教団は、しばしば偏狭な家族像を信者家族に押し付け、人間にとってとても重要な「社会と家族の両方に所属している状態」を壊してしまいます。 「社会と家族との双方に所属し、この二つをでき得る限り両立させていく」ことの重要性を、宗教教団はよくよく考察する必要があるでしょう。信仰を持つ者が、社会と家族と宗教共同体に身をおくことになる場合、教団が「社会と家族よりも宗教共同体だけを優先することに固執・誘導する」ことになれば、時に社会・家族の図式が壊れたりしますよね。 宗教教団は、「子どもの社会性を奪い、子どもの多様な可能性の扉を閉めてしまうような方向へと信者が突っ走ってしまうドグマやエートスを構築していないか」という社会からの問いかけを、真摯に受けとめていかねばなりません。そのため、社会の価値観や文脈を理解し、社会問題と向き合い、教義教学を成熟させていく取り組みを怠ってはならないと思います。それは宗教教団が取り組み続けるべき案件なのです。 たとえば(あまりぴったりの例示ではないのですが)、第二バチカン公会議(一九六二~一九六五年)を契機として、カトリックでは他宗教への敬意をもつことや、宗教間対話が大きく促進されることとなりました。これはカトリック共同体が成熟するために必要な取り組みだったに違いありません。教団が成熟するには、社会問題に向き合い、異なる領域や信仰に懸架する歩みが必要でしょう。 最初の問題へ立ち返りますが、「宗教共同体は平和や非暴力にも貢献するし、争いや暴力も引き起こす。どっちにも振れる」ということをしっかりと自覚しなければなりません(この問題は宗教だけではなく、政治や経済などの領域でも同じことが言えると思います)。この自覚を手放すことなく、常に自らに問い続け、丁寧に慎重に宗教共同体が成熟する方向を模索していく、ここ二年ほどそんなことを考え続けております。 最後に付言しますと、この問題についてマルティン・ブーバーが「共同体」と「集合体」とに分けて考察しており、二つの次元の違いについて言及しています。他者が「汝」として成立する世界(共同体)と、他者が「それ」として成立している世界(集合体)の区分は、集合体がしばしば非人間的な現象を生み出すことを考察する際の手がかりとなりそうです。 (以下次号)
釈 徹宗