長官から「生命を大切にしなさい」と声をかけられた「特攻隊員」が素朴に感じた気持ち
「帰ったぞ」
司令部は丘に掘られた洞窟と、丘の北側に建てられたニッパ椰子の数軒の小屋に分散して置かれた。 大西は、マニラを立ってわずか数日で、直接、バンバンに帰ってきた。門司の記憶では「20日過ぎ」とあるが、日付ははっきりしない。いずれにしてもとんぼ返りである。門司が、知らせを受けて長官の小屋に行くと、すでに参謀たちが集まって、籐椅子に座った大西中将と福留中将を囲み、狭い小屋のなかはぎゅう詰めだった。大西は、飛行服を着たまま、中央での交渉経緯を福留中将以下、幕僚たちに話しているところだった。 門司が参謀の背中越しに覗いていると、大西と目があった。大西は、 「帰ったぞ」 というように、小さく頷いた。それだけで、門司は嬉しかった。 大西によれば、元山(朝鮮)、大村(長崎県)、筑波(茨城県)、神ノ池(茨城県)などの教育部隊から、教官、教員、予備学生、予科練などの搭乗員と飛行機150機がフィリピンに送られてくることになったという。これらはほとんどが特攻要員で、ひとまず台湾に進出して訓練を受けたのち、逐次クラークに進出する。猪口参謀は、これらの訓練のため台湾に残った。この増援部隊を主力とする特攻隊は、元山空からの転入者が多かったので、のちに朝鮮半島の金剛山にちなんで金剛隊と命名される。
桟橋への体当り命令
特攻隊は、11月中旬から12月にかけても、続々と出撃していった。 敵機動部隊が発見されればこれに向かうが、この頃になるとむしろ、レイテ島に上陸する敵兵をできるだけ殺傷することに重点が置かれるようになり、目標は敵輸送船へと変わっていった。 すでに敵の上陸用桟橋がタクロバンに完成し、敵輸送船は昼間、遠くに退避していて、夜間、すばやく桟橋に着岸して人員物資を揚陸する。 角田は、名も知らぬ大尉が、中島中佐に敵桟橋への体当り攻撃を命ぜられ、 「桟橋に体当りとはいかにも情けない。せめて目標を敵輸送船に変更されたい」 と懇願したが、 「まかりならぬ」 一言で却下され、意気消沈した様子で部下のもとへ帰って行くのを目撃している。