長官から「生命を大切にしなさい」と声をかけられた「特攻隊員」が素朴に感じた気持ち
本官も必ず最後の一戦で後を追う
陸軍特攻隊はその後も続々と編成されるが、海軍の特攻隊が当初、現地部隊である第一航空艦隊で編成、実行されたのに対し、陸軍は中央で編成の上、前線に送るという形をとった。フィリピンの陸軍第四航空軍司令官・富永恭次中将は、 「君たちだけを死なせはしない。本官も必ず最後の一戦で後を追う」 という訓示をして特攻隊員を送り出しておきながら、昭和20年1月、米軍がルソン島に上陸するや大本営に無断で、部下をも置き去りにして台湾に逃亡したふるまいで歴史にその名を残している。 司令官に人を得なかったのは不幸だが、陸軍特攻隊員たちの命の価値が、それで下がるわけではない。もとより洋上航法の訓練をほとんど受けていないのにもかかわらず、陸軍特攻隊の働きもまた、米軍にとっては大きな脅威に違いなかった。 11月下旬、二〇一空は、増援された各部隊からの新転入者で活気を呈していた。 角田少尉に突然、 「分隊士、しばらくでした」 と笑いながら敬礼する大尉がいる。はて、誰だろうと思ったら、角田がソロモンの五八二空時代、要務士を務めた少尉候補生が、その後飛行学生を卒業し、いま前線に来たのだ。
特攻隊に「ご無事で」とは言えない
「もう分隊長ですね」 階級章を見て角田が言うと、 「いや、隊長ですよ」 と胸をそらして笑う。出世したのを旧知の分隊士に見せて、得意でたまらない様子に、角田はふと心温まるものを感じた。だが、ここへ来たということは、「隊長」でも飛行隊長ではなく、特攻隊の隊長だ。それに気づいた角田が、返す言葉も出せずにいると、大尉は、 「すぐにセブに行かなくてはなりません。もう搭乗員が整列して待っておりますから、これで失礼します」 ともう一度敬礼した。特攻隊だから「ご無事で」とは言えず、角田は小さく「お元気で」と声をかけた。踵を返し、足早に去ってゆくライフジャケットの背中には、大きく「竹田大尉」と書かれていた。 玉井司令とともに、特攻を積極的に推進し続ける中島飛行長は、いつしか隊員たちから蛇蝎のように嫌われるようになっていた。