長官から「生命を大切にしなさい」と声をかけられた「特攻隊員」が素朴に感じた気持ち
戦死による繰り上げ進級
記録によると、正成隊、乃木隊、時宗隊、第二白虎隊、第二櫻花隊、第五から第十一聖武隊、梅花隊、正行隊、山本隊、第二朱雀隊、第一から第三高徳隊、笠置隊、吉野隊、右近隊、千早隊、第一から第七櫻井隊…………と数多くの特攻隊が出撃し、また期待された銀河特攻も、烈風隊、旋風隊、強風隊、疾風隊、迅雷隊、怒涛隊、草薙隊が、相次いで出撃した。セブ基地から出撃する隊が「聖武隊(せいぶたい)」となり、それに通し番号がふられるなど、新しい隊名はだんだん種切れになっていた。 体当り隊も、天候不良やエンジン不調で帰ってくることが多く、1人で数回、いくつかの隊にまたがって出撃する者も出てきて、司令部に入る情報も錯綜してくる。 直掩機の戦死者もその数を増してゆく。11月19日、第二朱雀隊の直掩で、のちに海軍次官となる多田武雄中将の長男・多田圭太中尉が、11月25日には笠置隊の直掩で、支那事変以来歴戦の、海軍有数の操縦技倆の持ち主といわれた南義美少尉が、いずれも襲い来る敵戦闘機から爆装機を守る盾となって戦死した。 直掩機で戦死した場合はもちろん、爆装機と同様に特攻戦死の扱いになるが、12月に入って、従来の二階級進級にかわり、下士官はすべて少尉に、兵はすべて飛行兵曹長に、特別進級することになった。士官、准士官は二階級進級のままだが、たとえば下士官の二等飛行兵曹が特攻戦死すると、四階級進級して少尉に、兵の上等飛行兵が特攻戦死すると、五階級進級して飛行兵曹長となる。
悲しい親孝行
これには挿話があった。10月の終わり頃、セブ基地で中島中佐が出撃を命じた二木弘一飛曹が、突入の機会があったのに、爆弾を落として帰ってきた。中島に質された二木一飛曹は、 「今死ねば二階級進級して兵曹長ですが、11月1日に進級して上飛曹になってから死ねば少尉になれます。士官と准士官では、本人ばかりでなく遺族への待遇も大きく違います。いま私にできる親孝行はこれだけなのです」 と、堂々と信念を主張した。つねに突入せず帰還した特攻隊員を叱りつける中島も、これには返す言葉がなかったという。 二木一飛曹の言葉が中島の心を動かし、中島の具申が大西を動かした。 二木一飛曹は、その言葉どおり、上飛曹に進級したのちの11月18日、第八聖武隊の爆装一番機として、タクロバン沖の敵輸送船に突入した。 出撃は少し遅れたが、陸軍でもすでに特攻隊が編成され、11月12日から出撃が始まっている。体当り機に改修した九九式双発軽爆撃機、四式重爆撃機からなる万朶隊が茨城県の鉾田教導飛行師団で、また静岡県の浜松教導飛行師団で四式重爆からなる富嶽隊が編成され、それぞれ10月中にはルソン島に進出したのを皮切りに、一式戦闘機からなる第一から第四の八紘隊、九九式襲撃機からなる第五、第六の八紘隊が、内地で編成されフィリピンに送られた。