長官から「生命を大切にしなさい」と声をかけられた「特攻隊員」が素朴に感じた気持ち
再編成のためにぜひ角田少尉がほしい
角田たち二五二空からの新転入者は、マバラカットの二〇一空本部斜め向いの民家を宿舎に定め、角田も、士官室には入らずここで下士官兵搭乗員と一緒に暮らすことにした。 すると、その日の夕食後、さっそく角田を訪ねてきた者がある。長田延義飛曹長。昭和12年に操縦練習生を卒業したベテランで、階級は一つ下の飛曹長だが、角田よりも搭乗歴は長い。前任地の厚木空で一緒に勤務したこともあり、昭和9年に海軍に入った同年兵どうしでもある。長田飛曹長は言った。 「二〇三空も、西澤廣義飛曹長、尾関行治飛曹長をはじめ、歴戦の搭乗員のほとんどを失い、残るは10名ばかりになってしまった。そして、戦闘三〇三飛行隊長・岡嶋清熊少佐は特攻に反対で、全員を引きつれて再編成のため内地に帰ると言っている。 先ほどまで士官室で、『全搭乗員特攻』を唱える二〇一空の中島飛行長と、『特攻は邪道である。内地に帰り再編成の上、正々堂々と決戦をすべきだ。俺の目の黒いうちは二〇三空からは1機の特攻も出せぬ』と主張する岡嶋少佐が、互いに軍刀の柄に手をかけて激論をしたが、玉井司令の仲裁で、二〇三空は全員、明朝、輸送機で内地に帰ることになった。 それで岡嶋少佐が、『再編成のためにぜひ角田少尉がほしい。一緒に帰ってもらいたい。航空本部には一身に代えて責任をもつから』と言っている」 ――しかし角田は、この申し出を断った。二五二空から連れてきた部下の下士官兵搭乗員を見捨てて、自分だけが帰るわけにはいかない。
角田を特攻から救おうとした
話のなりゆきを不安そうに見つめる搭乗員たちに、長田の一喝が飛んだ。 「お前たち、なんで分隊士に帰るように頼まないんだ。分隊士には奥様も子供もいるんだぞ。その分隊士がお前たちと別れられなくて頑張っているのがわからんのか!」 長田は、角田の腹の底まで見通していたのだ。搭乗員たちは、ハッとしたような表情をして、口々に、「私たちはいいですから、分隊士、帰ってください」と言った。だが角田も、これは長田が角田を死なせたくないために、岡嶋少佐に強く具申してくれた話に違いないと察している。同年兵の厚意はありがたいが、岡嶋少佐にも迷惑はかけられない。長田の説得は深夜にまで及んだが、角田は、内地帰還を最後まで固辞した。 角田を特攻から救おうとした長田飛曹長はその後、昭和20年5月14日、沖縄沖の航空戦で戦死した。 マニラの司令部には、福留中将、大西中将以下、第二航空艦隊先任参謀・柴田文三大佐以下の幕僚たちと、門司親徳副官がいる。第一航空艦隊先任参謀・猪口力平大佐は作戦指導のためほとんどクラーク基地に詰めていて、第一航空艦隊参謀長・小田原俊彦大佐はダバオに出向いて指揮をとっている。 11月中旬になると、マニラも敵艦上機の激しい空襲を受けるようになっていた。11月13日には湾内で軽巡洋艦「木曽」と駆逐艦が撃沈され、輸送船にも被害が出たので、レイテ島への補給はいよいよ困難になった。