大村崑、92歳の喜劇役者「最期のお迎えは<赤い霊柩車>で。9歳で父が他界。19歳で片肺を切除、寿命は40歳と宣告され。『やりたいことをやってやろう』と逆境が闘志に」
テレビの黎明期からお茶の間の人気者として親しまれてきた大村崑さん。90代になった今も、毎日元気ハツラツだと言います。波瀾の人生を「笑い」で明るく乗り切ってきた、大村さんの原点とは (構成:野田敦子 撮影:霜越春樹) 【写真】幸せになるために、大村崑さんが肝に銘じている《5つの『な』》とは… * * * * * * * ◆人の笑う顔が好きだから 5月に映画の舞台挨拶でスクワットを披露したんです。そしたら、共演者の橋爪功さんが僕を見て「怪物だよ」とあきれ顔でポツリ。彼のひと言に会場がドッと沸いてね。翌日には「大村崑の体力に仰天。怪物だ!」なんてネットニュースにもなりました。橋爪さんの絶妙な言葉選びのおかげで、僕のスクワットが映画の宣伝に一役買ったというわけです。 その「怪物」はただ今、92歳。ありがたいことに映画や講演、新曲のレコーディングなどオファーを多くいただき、「日本最高齢の喜劇役者」としてがんばっています。 時々、「なぜ、喜劇にこだわるんですか」と聞かれますが、答えはいたってシンプル。人の笑う顔が好きだからです。どんな人も、笑うとええ顔になるんですよ。 さっきまで仏頂面だった人が、笑った途端にええ顔になって身を乗り出し、舞台や映画を夢中になって見はじめる。「ああ、笑ってくれてはる。幸せやなあ」と、心の底から思います。 映画やドラマを「料理」とするなら、喜劇役者は「砂糖」です。すき焼きも醤油だけじゃおいしくならないでしょ。砂糖の甘みとコクが加わって初めて、何とも言えないまろやかさが出るんです。 僕たち喜劇役者の役割も同じ。台本という素材を〈笑い〉で味つけして、おいしい料理に仕上げるというわけです。僕のこと「さとうさん」と呼んでもいいですよ。(笑)
喜劇の楽しさを最初に教えてくれたのは親父です。劇場で働いていたので、ふらりと幼稚園に迎えに来ては、僕を肩車して神戸の繁華街・新開地の劇場に連れていってくれました。 楽屋で遊んでいるうちに、いつの間にか役者さんにセリフを教わり、衣装を着せられて舞台へ。幼い子が「かかさんの名はお弓と申します~」なんて浄瑠璃の名セリフを言うもんだから、お客さんは大喜びです。あのときの興奮や快感が、僕の原点といえるかもしれません。 でも、そんな幸せは長く続きませんでした。9歳のとき、親父は腸チフスで急死。生まれて間もない妹は母のもとに残り、僕は父の兄夫婦に引き取られることになって、家族はバラバラに。 伯母は性格のきつい人でね。「おばちゃん」と呼ぶと「お母ちゃんやろ!」と力いっぱいぶつんです。耐えられなくなって、母のもとへ家出したことがありました。しかしそこで見たのは、再婚相手の機嫌をうかがいながら怯えて暮らす母と妹の姿。僕の居場所なんてなかったんです。 仕方なく伯父夫婦の待つ神戸へ戻る日、地面に座り込んで泣き崩れる母の姿がバスの窓から見えました。後にも先にも、あんなにつらく切ない思いをしたことはありません。 その後も、試練は続きます。19歳で肺結核になり、片肺を切除。医師に「君は40歳までしか生きられへん。結婚はするな。子どもも持つな」と言われて。「どうせ長く生きられないならやりたいことをやってやろう」と開き直りました。逆境が闘志につながったんですから、人生はわからないものです。 子ども時代は寂しくて泣いてばかりでしたが、その経験が僕をちょっと複雑な人間に育て、「甘いだけじゃない砂糖」になれたのかもしれません。不器用ながらも、僕を精一杯愛してくれた二人の母のおかげでもあります。
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